デルを描く。
 二月、画室の前の空地の枯草の下をほじくると、若草の頭がすでに用意されているのに驚く。
 三月、まだうすら寒い陽光である。でも近くの池の底に沈んでいる空缶や茶碗の破片の間に赤腹がのろく動いているのを眺める。心のぬくみ少しづつ[#「づつ」は「ずつ」の誤記か]動くを覚える。
 四月、そわそわうそうそと血の動揺を感じる。何かじっとしてはいられないといって何をしていいのかわからないという苦悶を感じ、ただもやもやと暮す日多し。
 五月、光と空気と、青葉と温度が身に適し何となく爽快を感じる。少しずつ神経の安定を覚え、何か大いに風景写生でもやってみたく思う。
 六月、天気が続く、本当に何かしたいと思っていると梅雨の季節に入る。雨を眺めて何となく悩み多くなる。美人を美しと見る日多し。
 七月、この月の前半、雨なお多く、雷も鳴る。私は夕立ちを好む。
 ところで何故か毎年、この頃より生活上の夏枯れの節に入る。何か売り払ってみたくなる。結局なるべく外出を見合わせ、蚊に食べられたところをかくことをもって楽しみとなす。
 八月、毎年の行事である研究所主催の講習会が一日から始まる。朝寝は禁物、九時から午後三時までの労働である。家へ帰ってもなお心の底へ木炭とパンの屑とが溜っている如く感じる。このこと二週間続くのである。そのへとへとのままにして二科へ出す絵を整理し発送するのである。一年間の収穫の貧弱さに気を悪くしているところへ出品画の批評を持ち込まれるのである。
 九月、連続せるへとへとのわが身を上野の美術館において見出す。無数の出品画の山である、わけのわからぬ競争と苦の世界の鳥瞰である。絵画の過食と胃に停滞せるパン屑とが混合して中毒作用を起こすのと、陽気が秋に入って身内に変化をおよぼすのと、心身の疲労が重なり例年鑑査の中程から必ず下痢を催すのである。懐炉を腹にあてて残暑の炎天を上野へ急ぐ辛さは深い。
 その弱り目において、自分の絵を明る過ぎる壁面に曝して見るのである。心萎びてしまう。招待日に紋付など着用して会場に立つ勇気さらに出でず。逃ぐるが如く帰阪して残る半月を胃腸の手当てで暮す。こおろぎ鳴く。
 十月、初秋の自然は風景写生によろし、されど二科会大阪開会とある。相当出勤の義務あり。トランクより冬帽、スエーター[#「スエーター」は底本では「セーター」]、オーバー等を取り出す。ナフタ
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