芸術でなくては表現することはできない。ドストイェフスキーやストリンドベルヒ等の作品にはこのやうな道徳的感情が現はれてゐる。
 ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。凡そ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫も殺生もすでに許されて此の世界に存在する以上は、善いものであるに相違ないと云ふのである。この全肯定の気持は深い宗教的意識である。私もその無礙の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としてゐるものである。併しそれは決してアモーラルな心持からではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するといふのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なつてゐる。大小・美醜・善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままと云へるのである。ブレークが「神の造り給うたものは皆善い」と云つたのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願つた如く「善悪の彼方の岸」に出づることは、決して善悪の感じを薄くして消すことによ
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