真の芸術は宗教的感情を表現したものである。」と云ふトルストイの芸術論が如何に偏してゐても、其処には深いグルンドがある。素より道徳を説明し或は説教せんとするアプジヒトの見え透くやうな作品からは、純なる芸術的感動を生ずることはできないけれども、たとひその作には際立つた道徳的の文字など用ゐてなくとも、その作の裏を流れてゐる、或は寧ろ作者の人格を支配してゐるところの人間性の深い、悲しい、或は恐ろしい善悪の感じが迫つて来るやうな作品を私は尊ぶ。決してイースセティシズムだけで深い作が出来るものではない。素より善・悪の感じといつても、私は深い、溶けた、輝いてゐる純粋な善・悪の感じを指すのであつて、世の中の社会的善悪や、パリサイの善をいふのではない。それらの型と約束を一切離れても、私たちの魂の内に稟在する、先験的の善悪の感じ、それはもはや、決して彼の自然主義の倫理学者たちの説くやうな、群居生活の便利から発したやうな方便的なものではなく、聖書に録されたる如く、魂がつくられた時に造り主が附与したる属性としてでなくては、その感じを説明できないやうな深い、霊的な善悪の感じを指すのである。かかる善・悪の感じは、
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