一つのディメンションを認めないやうなものである。人生に一つの出来事があれば、必ず一面に於て道徳的出来事である。而して私はそのザイテに最も重大に関心して生きねばならぬと感ずるのである。それは何故であらうか? 私はよく解らない。恐らくこの価値の感じが他の価値の感じよりも一層魂の奥から発するからであらうと思はれる。私たちが真に感動して涙をこぼすのは、善に対してである。美に対してではない。もし美学的なるもの das Aesthetische と倫理学的なるもの das Ethische とをしばらく分けるならば、私たちの涙を誘ふものは芸術でも人生でも後者である。美しい空を見入つて涙がこぼれたり、調子の乱れた音楽を聞いて怒りを発したりする時でも、私たちの心を支配してゐる調子は後のものである。善悪の感じは私たちの存在の深き本質を成してゐるものであるらしい。私は芸術に於てもこの道徳的要素は重要な役目を持つべきものと信ずる。私はこの要素を取扱はない作品から殆ど感動することはできない。トルストイやドストイェフスキーやストリンドベルヒの作に心惹かれるのはその中に深い善・悪の感じが滲み出てゐるからである。「
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