みながら知つて行くのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり。」と言つたやうに、その完全なる相は、聖人の晩年に於てすら体得できがたき程のものである。すべてのものの本体は知識では解らない。物を知るとは、その物を体験すること、更に所有《アンアイグネン》することである。善悪を知るには徳を積むより外はない。
 善と悪との感じは、美醜の感じよりも遥かに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見えるがもつと直接に人間の魂に固存してゐる。魂が物を認識するときに用ゐる範疇のやうなものである。魂の調子のやうなものである。否、寧ろ魂を支へてゐる法則である。それを無みすれば魂は滅ぶのである。或る種類の芸術家には、人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として観るといふ人がある。自分の興味からさやうに或る方面《ザイテ》を抽象するのは随意である。併し、それを具体的なる実相として強ひ、或は道徳の世界に通用させようとするのは錯誤である。或る人生の事象があれば、それは大きかつたり小さかつたりする如く、同様に善かつたり悪しかつたりする。物を観るのに善・悪の区別を消却するのは、恰も物体に
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