併し百の善行も、一つの悪行を償ふことはできない。私たちは善行で救はれることはできない。救ひは他の力に依る。善行の功に依らず愛に依つて赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。併し善くならうとする祈りがないならば、己れの罪の深重なることも、その赦されの有り難さも解りはしないであらう。例へば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くならうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参した程の親鸞なればこそ、法然上人に遇つた時即座に他力の信念が腹に入つたのである。その時赦されの有り難さがいかに沁々と感ぜられたであらうか。思ひやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くならうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念仏によつて成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と云つたのは、何々するは善、何々するは悪といふやうに概念的に区別することはできないと云つたのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であつた。故に仏を絶対に慈悲に、人間を絶対に悪に、両者
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