れてはゐても名門の種といふやうな気がする。昔は天国に居たのが、悪魔に誘はれて今は地上に堕ちて居るといふのは、よくこの気持を説明してゐる。私たちは堕ちたる神の子である、心の底には天国の俤のおぼろなる思ひ出が残つてゐる。それはふる郷を慕ふやうなあくがれの気持となつて現はれる。私たちが地上の悲しみに濡れて天に輝く星をながめる時、私たちの魂は天つふる郷へのゼーンズフトを感じないであらうか? 私は私たちの魂がこの悪の重荷から一生脱することができないのは何故であらうかと考へる時、それは課せられたる刑罰であるといふ、トルストイやストリンドベルヒ等の思想が、今までの思想のうちでは最も私を満足させる。その他の考へ方では天に対する怨嗟と不合理の感じから医せられることはできない。「ああ私は私が知らない昔悪い事をしたのだ、その報いだ」かう思ふと、自ら跪かれる心地がする。「夫れ太初に道《ことば》あり、万の物これに由りて創らる。」とヨハネ伝の首《はじめ》に録されたる如く、世界を支へる善・悪の法則を犯せば必ず罰がなくてはなるまい。是れ中世の神学者の云つた如く、神の自律でもあらう。私たちの罪は償はれなくてはならない。
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング