か。「魂は聖霊の宮なり。」といふのはかやうな気持をいふのではあるまいか。その公けな部分を悪しざまに言ふことは、自分の持物を罵るやうにはできない気がする。「聖霊に対する罪」といふやうな気がする。「私たちの魂は悪のみなり」と宣べる時、私たちは他人のもの、造り主のものを罵つてはゐないであらうか。私は寄席に行つて彼の「話し家」が自分の容貌や性質を罵り、甚しきは扇子を以て己れの頭を打つて客を笑はせようと努めるのを見る時に、他人のをさうしたよりも一層深い罪のやうな感じがする。私は、私の魂は悪しと無下に言ひ放つのはそれと似た不安な感じがして好ましくない。やはり私は、私たちは本来神の子なのが悪魔に誘惑せられて悩まされてゐる、それで魂の内には二元が混在するけれども、結局善の勝利に帰するといふやうな聖書の説明の方が心に適ひ、又事実に近い気がする。私たちの魂は善悪の共棲の家であり、そして悪の方が遥かに勢力を逞しくしてゐる。併し心を深く省みれば、二つのものには自ら位の差が附いてゐる。善は君たるの品位を備へて臨んでゐる。さながら幼い皇帝が逆臣の群れに囲まれてゐるにも似てゐる。私たちの魂には或る品位がある。落ちぶ
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