私は飽くまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じてゐる。それは造り主が蒔いたのである。私は真宗の一派の人々のやうに、人間を徹頭徹尾悪人とするのは真実のやうに思へない。人間には何処かに善の素質が備はつてゐる。親鸞が自らを極重悪人と認めたのもこの素質あればこそである。自分の心を悪のみと宣べるのは、善のみと宣べるのと同じく一種のヒポクリシーである、偽悪である。その上私はかく宣べるのは何者かに対して済まないやうな気がする。私はかやうな問題について考へる度に、何となく胸の底で「否定の罪」とでもいふやうな宗教的な罪の感じがする。凡そ存在するものはでき得る限り否定しないのが本道である。造られたるものの造り主に対する務めである。私の魂は果して私の私有物であらうか。或は神の所有物ではあるまいか。私は、魂の深い性質の内には、自分の自由にならない、或る公けなもの、或る普遍なもの、自己意識を越えて能《はたら》く堂々たる力があるやうな気がする。私たちの善・悪の意識に内在するあの永遠性は何処から来るのであらうか。或は造り主の属性《アツトリプート》が私たちの先天的の素質として顕はれるのではあるまい
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