芸術でなくては表現することはできない。ドストイェフスキーやストリンドベルヒ等の作品にはこのやうな道徳的感情が現はれてゐる。
 ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。凡そ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫も殺生もすでに許されて此の世界に存在する以上は、善いものであるに相違ないと云ふのである。この全肯定の気持は深い宗教的意識である。私もその無礙の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としてゐるものである。併しそれは決してアモーラルな心持からではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するといふのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なつてゐる。大小・美醜・善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままと云へるのである。ブレークが「神の造り給うたものは皆善い」と云つたのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願つた如く「善悪の彼方の岸」に出づることは、決して善悪の感じを薄くして消すことによつて達せられるのではなく、却つてその対立を益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、70−14]峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによつて成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追ひ悪を忌む性質は益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、70−16]強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦し」を通して救はれることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕へるのである。併しその「赦し」といふのは悪に対して無頓著なインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁さず認めて後に、そのいまはしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教へた耶蘇は、「一つの眼汝を罪に堕さば抜き出して捨てよ」と誡めた同じ人である。「罪の価は死なり」とある如く、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂は、さながら面を裹む皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪へぬやうに、一点の汚みにも恥ぢて死ぬほど純潔なものである。モンナが夫に貞操を疑はれた時に、「私の眼を
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