分の責任ではないのである。しかも自ら極重悪人と感じたのである。弁解せずして自分が、自らと他との運命を損じることを罪と感じるところに道徳は成立するのである。
 多くの青年は初め善とは何かと懐疑する。そしてその解決を倫理学に求めて失望する。併し倫理学で善悪の原理の説明できないことは、善悪の意識そのものの虚妄であることの証明にはならない。説明できないから存在しないとは云へない。凡そいかなる意識と雖も完全には説明できるものではない。そして深奥な意識ほど益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、67−13]概念への翻訳を超越する。倫理学の役目は、私たちの道徳的意識を概念の様式で整理して、理性の目に見えるやうに(veranschaulichen)することにあつて、その分析の材料となるものは、私たちの既に持つてゐる善悪の感じである。善とは何かといふことは今の私にも少ししか解つてゐない。私は倫理学の如き方法でこの問に答へ得るとは信じない。善悪の相は、私たちの心に内在する朧げなる善悪の感じを便りに、様々の運命に試みられつつ、人生の体験の中に自己を深めて行く道すがら、少しづつ理解せられるのである。歩みながら知つて行くのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり。」と言つたやうに、その完全なる相は、聖人の晩年に於てすら体得できがたき程のものである。すべてのものの本体は知識では解らない。物を知るとは、その物を体験すること、更に所有《アンアイグネン》することである。善悪を知るには徳を積むより外はない。
 善と悪との感じは、美醜の感じよりも遥かに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見えるがもつと直接に人間の魂に固存してゐる。魂が物を認識するときに用ゐる範疇のやうなものである。魂の調子のやうなものである。否、寧ろ魂を支へてゐる法則である。それを無みすれば魂は滅ぶのである。或る種類の芸術家には、人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として観るといふ人がある。自分の興味からさやうに或る方面《ザイテ》を抽象するのは随意である。併し、それを具体的なる実相として強ひ、或は道徳の世界に通用させようとするのは錯誤である。或る人生の事象があれば、それは大きかつたり小さかつたりする如く、同様に善かつたり悪しかつたりする。物を観るのに善・悪の区別を消却するのは、恰も物体に
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