併し百の善行も、一つの悪行を償ふことはできない。私たちは善行で救はれることはできない。救ひは他の力に依る。善行の功に依らず愛に依つて赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。併し善くならうとする祈りがないならば、己れの罪の深重なることも、その赦されの有り難さも解りはしないであらう。例へば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くならうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参した程の親鸞なればこそ、法然上人に遇つた時即座に他力の信念が腹に入つたのである。その時赦されの有り難さがいかに沁々と感ぜられたであらうか。思ひやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くならうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念仏によつて成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と云つたのは、何々するは善、何々するは悪といふやうに概念的に区別することはできないと云つたのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であつた。故に仏を絶対に慈悲に、人間を絶対に悪に、両者をディスティンクトに峻別せねば止まなかつたのである。
 人間の心は微妙な複雑な動き方をするものである。生きた心は様々のモチーフやモメントでその調子や方向を変ずる。私は決して善・悪の二つの型を以てそれを測り切らうとするのではない。善と悪とは人の心の内で分ち難く縺れ合つて働く。嘘から出た誠もあれば誠から出た嘘もある。只それらの心の動乱の中を貫き流れて稲妻の如く輝く善が尊いのである。ドストイェフスキーの作などに描かれてゐるやうに、怒りや憎みの裏を愛が流れ、争ひや呪ひの中に純な善が耀くのである。私はそれらの内面の動揺の間に次第に徳を積み、善の姿を知つて行きたい。人生の様々の悲しみや運命を受ける毎に、心の眼を深めて、先きには封じられてゐたものの実相も見えるやうになり、捨てたものをも拾ひ、裁いたものをも赦し、漸く心の中から呪ひを去つて、万人の上に祝福の手を延ばすやうに、博く大きくなりたいのである。魂の内なる善の芽を培うて、「空の鳥来たつてその影に棲む」やうな豊かな大樹となしたいのである。造り主の名によつて凡ての被造物と繋りたいのである。ああ、私は聖者になりたい。(かく願ふことがゆるさるるならば)聖
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