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個々のまことなる心の要求を絶対化しようとし、そして生命を調和ある一つの全体としようとするねがいから、私には多元の苦しみがいつも生じます。そして私の生活を調和ある静けさに保ちがたくなります。たとえば愛は真理であることをエルレーベンして、そしていかにして愛に程度を付することができましょう。これだけの程度に愛すれば足りると考えることは私にはできません。ことにキリストや釈迦《しゃか》のような先人を持っている私は、与えらるるものを持ちながら与えずにいるのをシュルドとして感ぜずにはいられません。そしてそれは私のほかの要求を容れないことが多いのです。そして私は私のすることをジャスティファイすることはほとんど一つの行為にもできがたくなります。それは私の動機ばかりについての考えですけれど、私の行為の生む結果まで考えれば私はイグノランスを恐れて何もできません。そして私はこの頃は一つの行為をするときには常にこう思います。「私のすることはよいこととは信じません。賢いこととはなおさら信じません。けれど私はこのことで間違わないにしても、ほかのことで間違わないというのではありませんから、このことをさしていただきます」と。そして神の知恵を祈り求めます。
愛はたのしいよりも苦しいものですね。私は愛のなかに含まるる犠牲というものをこの頃は深く感じます。そして愛の必ず十字架になることを思わずに、愛を語っていた愚かさを知りました。愛の本質は犠牲です。そして私は、この頃の多くの人々のように、何ものも自分のほしいものを捨てずに人を愛そうとしていたのでした。そしてその結果は何びとをも愛することはできないのでした。愛が十字架になるのはその犠牲の対象は、私たちのわがままならぬ動機よりほしきものを含むからです。はれやかな眺めと自由の空気、居心地よき部屋を得たき願い、善き友、尊き書物、美しき妻を得たき願い――このようなものも愛のための犠牲に供せらるべきものです。そしてそれを拒むならば愛の実行はできないように思われます。神の祭壇にはこれらのものをもひとたび献げなければ聖霊を受け取ることはできないというのは、私はもっともとうなずかれます。そしてそれは十字架でなくて何でしょう。他人の運命を自分の問題とするときにのみ真の愛はあると思います。私は妹をも、お絹さんをも、父母をも、愛することができないのは、私がこの十字架を負いえぬからです。あなたの美しき期待を裏切るには似ますけれど、私と妹とは七十日余の共生の間常に、いつもは融け合ってはいませんでした。お絹さんは私にたよりせぬようになり、父母のためには私は孝行な子ではないのです。――私を恕《ゆる》して下さい。そしてその真因は私のほしきものを私が捨てないからです。それらの具体的な消息は手紙には書くにあまります。そして醜い現実的なものです。
自らのほしきものをことごとく神の祭壇に献げずには、愛の実行は終わりあるものとして完成せられないように見えます。そこにキリストの十字架はあるのでしょう。自ら一度死なずに人を愛することはできないと思われます。このような平凡なことさえ、私はしみじみとはこれまでわからずにいたのでした。私は十字架を負わずに人を愛そうとは思いますまい。けれど何よりも苦しいのは私の心の底にあるエーステチッシュな要求が十字架に釘づけられる時です。私はどうしても今私の住んでいる部屋を美しいと満足することはできません。けれど父母を愛するためには私の住場所を私の家のほかに求めてはいけません。私は私の来訪を悦ぶ二つのファミリーに、そのファミリーがエーステチッシュな空気を持っていないために、口実を作って寄らずに帰りました。そして恨まれました。
私はまた今|悶《もだ》えの底に沈んでいるひとりの妹の宅に寄るのにも、どんなにその家の貧しさから生ずるアンプレザントなことをきろうて、またひとりの叔父のかたくなな性質に触れることをいとうために妹を愛する心を鈍くしたかもしれません。そして私は冷淡な心に自ら責められました。
私たちのようにすべてのものに要求の強いものには、十字架はますます重荷になります。私は愛することの善きことを知って、愛の実行のできない人間です。私を愛の人だといわれる時、私は空恐ろしくなります。私は愛を問題としている人で、愛の人ではない。私の真相はエゴイストです。文之助君がいったとおりです。私は人と親しい交わりにはいろうとする時、このことが気になってなりません。
私はいろいろな問題から促されて宗教の方へ赴くようになります。いかにすれば世界はコスモスとなるのでしょうか。人と人との交わりはなめらかに、そして心の願いは互いに乖《そむ》かずに、音楽のように、諧和するでしょうか。これ私の一生の問題です。
私はやはり庄原でも教会に参ります。私にはピープルとともに神を拝したき要求があります。そしてそのためにさまざまなおもしろからぬ、教会内の出来事を忍んでいます。そして今周囲から迫害されている教会を助けて働く気でいます。そして間違っているところは神様に恕しを求めます。どうせ間違いはないわけにはいかないのですから、私は許さるべきこととして教会に参ります。信仰はたしかでなくても、私はいのりたく、神をほめたく、キリストの生涯について人々に語ることは悪いことでもあるまいと思われますから。
私は聖書がまだ全く信じられないのは奇蹟や、癒しや、黙示があるためではなく、その計画が私にまだ絶対的完成を疑わしめるような、部分を含んでいるためです。ヨハネが「われその栄を見るにまことに神の子にして……」といったように、その計画がまことに神の計画として私に受け取れるならば、私は証拠を要求する気はないのです。けれど旧約聖書のある部分やまたキリスト伝のほうでも、キリストが数千の豕《いのこ》の群れを鬼に命じて殺すところなどは私は神の栄とは思われません。聖書のなかに示さるる善の理想が神の栄えを現わしていないときに私は信じられません。私はやはり梁川のような仕方で神に会わねばならぬのかもしれません。エーステチッシュに信仰にはいったのでは力と熱とを実有することはできず、スペクラチフな仕方では信ずる意志と感情とを動かすことはかたく、私はそこにある一種の不思議な摂理、天来の恵みと選み、というようなものを待ち望みたくなります。パウロのダマスコ途上の経験や、フランシスのきいた神の声や梁川の見神の実験のような宗教的意識の体験、それは官覚的ではないけれど、官覚よりも鮮明直接な一種の霊的経験を求めたくなります。いかにすればかかる経験が得られるか、梁川などはただ思慕の情の熱して機の熟したときであるといってるだけです。
私は宗教的意識を一生躬をもって研究したいと思います。
性の問題については、私はどうしても肉体の交わりをよしと見ることができません。性欲はエゴイスチックな動機からしか起こらないと私は信じています。(これは私の経験より得た信念です。もし愛の動機からその表現として行なわるる肉体の交わりがあるものならば、私は実に喜びます。私の一つの大きな十字架が取り去られます)
このことについては顔を赤らめずに語られません。私の信念を証するために具体的なことを書けば、あなたは赤面なさいます。なにとぞ許して下さい。思うに謙さんは純潔なのでしょう。それでわからないのでしょう、肉の交わりはたしかに醜な、エゴイスチックなものです、ひとりの少女に対して、もし性欲が起これば、その時の心のなかには愛はありません。異なった動機があります。その動機は天より来るものでなく、地獄にいたるような性質のものです。男と女とは性欲においては互いに食い合う獣のような相にあります。私は恥ずかしくてその証をすることができません。このことはだんだん詳しく申し上げますつもりですが、私は性欲のない、性のねがいというものを心に描きます。肉の交わりのない、しかも性のねがいの飽和する男女の恋、それにはエゴイスチッシュな動機の少しも交わらぬ恋を求めます。それは楽園を失う私たちにはたとえ許されなくとも、私はかかる恋を求めます。もしエゴイズムが悪しきならば肉の交わりは悪しきものです。たとえそれが子供の生まれる唯一の道であるにしても、肉の交わりをする時の男の心はエゴイスチッシュであることは私は今は疑いません。肉交の恐るべきは、その時男女は互いに犯しながら、愛を行のうたと自ら欺くところにあります。私たちが他の生物を食わなくては生きられなくとも、それを食うことはよいことではないように、やむをえぬ保存の道であっても肉交は悪しきものです。私は肉の交わりについてはそのように信じています。そして生物が互いに食うことが神の罰のように肉交しなくてはならないのは、人間に与えられたる罰ではないか。アダムとイヴとは楽園ではそのようなことはしなかったか、してもエゴイスチッシュな動機からでなくてできたのであろうと思います。トルストイが「夫婦はできうる限り肉交を避けよ」といったのは性交のエゴイズムに触れてそれを恐れたからと思われます。私は肉交を愛の表現と誤解した私の過ちを、多くの青年が共にするのを実に残念に存じます。
けれど私は性の欲求を性欲のほかに認めてそれを肯定したいのです。私はそのような天使の恋というべき恋を憧憬いたします。それはインノセントな男女よりもひとたび性欲に落ちて、それを厭離したる男女が神に祈りつつ相愛し、貞潔を守り、もし性欲に落つれば神に潔めを求めつつ共生することによって実現できますまいか。たとえ貞潔を完全に守れなくても、それをシュルドとして神に赦しを求め、実際に貞潔を理想として努力するならば、被造物としては聖なる恋といわれはしますまいか。それはフランシスが被造物として罪はあっても聖者であるように、その憧憬のなかに罪がないならば、実際に貞潔は守れずとも、神の前にひざまずいて二人が赦しを求めるときに、そのいのりのなかに二人は聖なる恋を生きるのではありますまいか。そのようにして私は私の性のねがいを自ら許したいのです。それは人間の型のなかに根を持つ、創造主の計画より出ずる純な要求と思われます。
私は私の日々の生活のありさまなどをあなたにかくつもりだったのに、理論に流れてあまりに長き時を費やしました。今日はそれらは次の手紙に残してひとまず筆を止めます。あなたは今は煩わしい試験の最中なのですね。七月の初めにはお目にかかれることと何よりのたのしみにいたしています。呉から四時間ほど汽車で走れば三次という私の学んだ中学校のある小さな町に着きます。その町から私の故郷までは人力車があります。私はその三次まであなたを迎えに行こうと思っています。まことにつまらない田舎町《いなかまち》で、景色も美しくはありませんけれど、それでも私たちに久しぶりに会いに来て下さいまし。
この手紙はあなたの美しい期待にそむくような荒々しいことばかり書きました。しかし私はいつも私の生活の欠けたところに注意を集めて私の生活を成長させようとするつもりもあり、また私のありのままを書くのですからそのおつもりで読んで下さいませ。
トビアスの書というのは読んだことはまだありません。ベラダンのフランシスはも少しで終わります。私はフェヒネルのダス、レエベン、ナハ、トーデとプラトンのゲスプレヒ、ユーベル、ディ、リーベなどを今読んでいます。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 六月十七日。故郷庄原より)
友来たる
一週間のうちにお目にかかれることと何より楽しみにして待っています。広島駅で一度下車して、五、六丁ばかり東にあたる東広島駅から芸備鉄道に乗り換えて、三時間ほど川や、小山や、農家などばかり見える田舎を走ると三次《みよし》という駅(終点)に着きます。私はそのステーションのプラットホームに、あなたを待っているでしょう。そこから私の町まで五里の道を馬車で駆けると二時間あまりで私の家に着くわけになります。
それであなたは広島から出発する時に、何時の汽車に乗るかを、ちょっとめんどうながら、三次町宗藤嚢次
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