裁くような空怖ろしい心を起こすには、幾度も自分を省みました。ヨブの例をも思わないのではありません。けれど旧約聖書を読むことの深くなるだけ、私はそれを深く感じます。これは私が聖書を約束の書として受け取ろうと思ってから後に、いっそう強くなりました。私たちは宗教的気分を味わうためならば、聖書の心に適う部分をさえ読めばよいけれど、信仰のためには全部を信じなくてはなりません。もし一部分だけを信ずるならば、もはや聖書以外のものに、たとえば、実験というようなものに頼らねばならず、その時からキリスト教としての特殊の宗教は亡びます。キリスト教としての徹底した態度は聖書無謬説のほかはないと私は思います。そしてじっさい真のキリスト信者は、かかる態度の信者においてこれを見いだします。
私は、愛や赦《ゆる》しや癒《いや》しや労働やのキリスト教的徳を尊ぶ心は深くなるばかりです。けれどそれだけではキリスト信者ではありません。キリスト信者はキリストを神の子、救主として信じねばなりません。
私の信仰の経路を反省してみますと、私にはキリスト教的愛の真理であることが信じられ、慈悲(キリスト教的愛)の完成のために祈祷の心持ちが生じ、その心持ちのなかに神に遭えるように感じたのでした。けれどそれだけでは少しもキリスト教と特別な関係はありません。私は聖書をドラマとして読み、そしてそれと、私の宗教的経験とを結びつけたのでした。そして私はキリスト教徒となりました。そこに無理と虚偽とがありました。よく熟考してみれば、私の神はエホバとは違います。またキリストのなくてはならない信仰とは違います。キリスト教徒とはいえないようです。このことは私が聖書を約束の書として受け取ろうとするまでは、すなわち宗教的気分がレアルなものとなるまでは私には、重いことではありませんし、気もつきませんでした。しかし私が厳重にならねばならなかった時、私は動揺しました。
私はキリスト教の思想で日々暮らしてはいますが、クリスチァンではありません。私はまだ「わが神よ」といって祈り続けてゆきましょう。そして、私の宗教の世界での歩みをば、未来のものとして祈り求めてゆきましょう。私はこの動揺は、私が宗教のなかで一歩深く、蹈み込んだためと思っています。信仰がレアルなものとしての要求を起こしてきたからと思って失望しません。私はけっしてキリスト教をきらうのではありません。私はもっとしっかりした態度でいつかクリスチァンになるかもしれません。これらのことはかく短く簡単には述べられません。あなたは十分には理解できますまいけれど、でも私の心持ちだけは以上の説明でほぼ推察下さいますことと存じます。気分の宗教ではとても病の癒しを神のみに求めたり、他人の幸福の守りを神に任せて安んじているような強い信仰はできません。そして私はそのような信仰を求めます。
性の問題は正夫さんへの手紙に書いたように、エゴイスチッシュな動機をはなれて、女性を愛し、しかもそれが性の要求の飽和を与え、しかも天の使のような生活を傷つけないような女性の愛し方はあるまいか、と考え悩んでいるのです。そしてそれは「あらねばならぬ」ことでありながら、よほど困難なように見えます。私は人間に性の要求のあるのは、根本的なよほど深い根のあるものと思います。そしてその性の要求をよしと見るのは無理ではないようです。しかもこれはじっさいエゴイズムの最大の動機となります。私は肉体の交わりに伴なう恥ずべき、きらうべきエゴイスチッシュな意識を痛感します。しかしこの交わりなくして、性の要求を飽和せしむるにはいかにすべきか、フランシスとクララとの交わりは、私に暗示を与えますけれど、それは師として、友としての感情にて、まだ性の要求の飽和には遠いもののようです。私はアダムとエバとのごとく、夫婦しての交わりにてのピュアな、天使的な、スイートな境地にあこがれます。それで私は、この頃は「聖なる恋」というあこがれを持ち始めました。神の前にての、エゴイスチッシュならぬ、天使としてゲミュートを損ぜぬ、けれど性の要求を飽和させる恋というものを描かずにはいられません。もし私たちの魂が祝福されたる高き神来の純化に達するならば、肉体の交わりなくとも、性の要求の飽和に達することができるのではありますまいか。
私は失恋して以来、いちずに女と恋とをなやみ[#「なやみ」に傍点]してきました。けれどそれは私の一つの反抗的なファラシーであって、ハイウェーではなかったかもしれません。私は遠い深い性の要求を魂の底に感じます。神さまがもし私に、神の※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《そ》わせ給う女を送り給うならば、私は恋をしてはならないと思い決めまいと考え出しました。けれど私の願うごとき恋が、いつ現実に得られるか、私には何の手がかりもありません。
前の手紙には結婚のことを申して送りましたが、あなたもおっしゃいますように、結婚を手段とするのは、ことに女の人に対して不徳なことです。また結婚が、すべての虚栄心を亡ぼしもしますまい。私はもっとよく考えましょう。けれど性の問題にどれほど私が苦しむかを察して下さいまし。「百合の谷」は読みおわりました。私はあなたに親しみを感ずるうれしさに和訳のほうを読みました。あなたの訳は訳したものとは思われないほどに、フリューシヒに私は感じました。そしてこれはこのような気分で生活してる人が訳したものであることは、文章の気品と調子とですぐにわかりました。争われないものだと思います。私は何の躊躇もなく「よく訳されている」と申すことができます。あなたでも、正夫さんでもその勉強には敬服します。あなたはまた試験の最中にこの訳を改訂なさったのでしたね。私は読了しましたから、妹に読ませましょう。トマスは「キリストの模倣」にも出ている隠遁的な、現世の混乱と汚濁とをきらうて、高く純潔なるものを憧るる情に燃えて私に迫りました。
けれどやはり「なんじをして神につかうることを忘れしむるがごときものの仲間となるなかれ」とか、「なんじの心を浮世に誘うがごとき友を捨てよ」とかいうような言葉は、私に首を傾けさせました。どうもハイウェーでないように思われました。フランシスでも隠遁はしたかったけれど、忍耐して浮世に伝道しました。私は「私のような汚れたものは……」といって身を隠すのでなくて、「そんな人々とは……」といって隠れるのはハイウェーではないように感じます。この混乱した時代に、もし経済の心配さえなくば、だれか静かな「隠れ場所」を求めぬものがありましょう。私たちには人を選んで交わりたいという、ミスアンスロフィックな感情が去りません。が私はこれをシュルドとしていつも禁じています。
私は一週間すれば別府を去って、妹とも別れて、この夏はたぶん倉橋島の音戸という広島湾内の小島にて暮らすようになりましょう。私はそこでしばらく考えさしてもらって、私の心を整えたいと存じます。夏には正夫さんと会えるかもしれないので、たいへん悦んでいます。秋からは上京します。そして久しぶりにあなたにもお目にかかれ、朝夕往復して生活を共にすることができますならば、どんなに嬉しいことでしょう。ただ、私は秋までに何か恐ろしい運命が、私を訪れねばいいがと案じます。私はこの頃は二、三か月先のことは恐ろしくなりました。願わくば神様が私を守り下さいまして私にこのたのしき逢瀬《おうせ》を恵み給わんことを祈ります。あなたも祈りつつ待っていて下さいまし。私は小一里の道を歩行できるようになりました。また肺のほうはたいへんよくて、どの医師も心配しなくてもよろしいと申してくれます。痔は一生の持病として、今後しばしば煩わしき手術を受けねばならないことと覚悟しています。パウロが終世癒えなかった眼病を、神の与え給いし棘《とげ》として忍び受けたように、私も私の運命に甘え、自らに媚びる心を制するための神の賜物として甘受いたしましょう。私がもし、ほしいままな健康の消耗を生ずるごとき行を避け、謙遜に生を守りますならば、そうたやすく倒れはしますまい。私は病弱な貧しい素質ながら、私に残された領土をひらいて行きましょう。私は私の使命のために神に祈らずにはいられません。なにとぞ一生涯私の善き友であってくださいまし。私も一生涯あなたに背く気はございません。もし神のみ心ならば一緒に仕事をする時もありましょう。かく思う時、私は心の躍る心地もし、たのしき恐ろしき未来のために祈りの心が湧くのを感じます。ああ、御一緒に天に昇りたいものでございますね。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 五月二十五日。別府より)
温泉地になじまず、去る
お手紙うれしく読みました。私は都合により倉橋島へは行かずに妹と一緒に故郷に帰ることになりました。ただ今は最後の散歩をしてしばしの交わりにはや別れにくきほどの親しさになっている幾つかの家庭に「さようなら」を告げて宿に帰ったところでございます。私たちは何だか悲しい淋しさに沈んでいます。市街の燈火も今晩は心もちかなしそうに思われます。思えば私は浜辺より森のなかへ、病院より温泉宿へと淋しい旅をしては、そのたびに幾人かの忘れえぬ人々とあわれな別れをして来ました。私は今夜はそれらの人々のことを思い出しました。そしてかなしい人生のさだめのまえに、祝福をその人々に送るいのりをせずにはいられません。私は私の未来の生涯をば淋しきものと思いさだめるたびごとに、ただこのようにしてできる多くの淋しい人々のよき友であることのみに私の生きる意味を見いだそうかと思うほどでございます。あなたはいつまでも私を愛して下さいまし。私はこの夏は父母にできる限りやさしくしようと思います。私のふる郷であなたにお目にかかれるならばこのように嬉しいことはありません。私は性と信仰とのことについてもあなたに聞いていただきたいことがありますけれど、それは帰郷してからの詳しき手紙に譲ります。私の心ばかりの送り物を受け取り下さいまし。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 六月二日。別府温泉より)
十字架についての思索
あなたの二つのお手紙と一つの雑誌とは私の手に届きました。私はこの手紙を書きはじめる前に日のあたる縁端の椅子にすわってあなたのなつかしき「花と老いたる母」を読みました。愛とかなしみと、そして遠い心のねがいが運命を知ることによって生まれる純な知恵とが私の胸にひびきました。あなたのものにはツルゲーネフやマーテルリンクなどに見らるるような、知恵と運命とのかなしい遠いこころもちがいつもひそんでいるように感ぜられます。あなたのものを見るまなこは早くから遠くに達することができるようになったものですね。あなたのものにはさながら老年期のような「見渡す力」が見えます。そしてあなたの趣味やあこがれは世のつねのものよりもみなひときわ奥の方へと深まっているようです。私はあの雑誌を見渡してあなたのものがはるかに学生ばなれしていることを感じました。ほんとにあなたなどは衣食の心づかいさえなくば学校へ行く必要のないまでにすすんでいらっしゃると思います。その表現の仕方にももはや一つのスタイルさえできてるように見えます。私はあなたの遠い御成長を祈っています。
読者はあなたの作物によって、運ばれて行く事件の進行ではなく、あなたのゲミュートに直接に感じて動かされます。私はあなたが現実をばどのような仕方に取り扱われるようになるかは未来のこととして、興味をもって注意していますけれど、おそらくは現実はそれ自らではあなたの興味をつなぐことはあるまいと思われます。そしていつも何かのイデアルがあなたを創作に駆るの機となるのではないかと思われます。私などはいつも空想や理想で生きています。遠い山脈と白い雲とにあこがれる心なくしてどうして生きるよすががありましょう。私は心ひかるるものをいつも生活のほんとの内容として生きています。私が現実を凝視するのはそれによって現実をはなれて私の標的を純粋にし、日々のこまかなことにまでアイデアリズムを透徹したいためでございます
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