間一緒にいても彼女ははればれとたのしく私たちと暮らしたというよりも、何となく悩ましげに苦しげに見えました。そして私と二人きりになるときには重苦しい、悩みの言葉を出しては不安のように見受けられました。彼女は苦しい都合を冒して広島を出ているので、ゆっくりしているわけにもゆかず、帰りたくないといって泣きながら舟に乗って別府を去りました。その日は波は静かでしたけれど空は曇って不安な天候でした。ハシケで汽船まで妹と一緒に見送りましたが、別れる時に妹の手を握って泣いていました。(彼女は感じやすく、じきに親しくなる性質にて、妹をすぐに好きになり、いくらか崇拝するほどになりました)私たちは埠頭に立って船の出るまで見送りました。私は船で人を送ったのは初めてでしたからか、たいへんかなしく感じました。そして彼女はしきりに船よいを気にしていたので、あの「青と白」の最初のシーンが思われてなりませんでした。汽船の見えなくなってからも、彼女の髪の銀のかんざしの遠くに小さく光ってキラキラしていたのが眼に残って消えませんでした。
彼女のねがいは私の妻になりたいと一すじに思ってるのです。そして私がその約束をしないので悲しがるのです。彼女は信じて恋しく思う男子に身も心もささげて妻になりたいというきわめて単純なねがいなのです。けれど私はさまざまのことを考えねばならない地位にいます。ことに私は結婚というものを十分に肯定するあきらかな根拠をさえ持ってるわけではないのですから。
病気のことや経済の問題は除いても私は性を十分に肯定することができかねるような考え方になっているのです。それは私の宗教的気分から来るのです。昔から多くの聖者たちが女から遠ざかったように、私にも天の使のようになるためには性を超越せねばならないような心地もします。元来生物の自己認識から起こる愛であり、愛の成就としての信仰ならば、性の愛とは別なもの、むしろ反対のものが宗教的愛のように考えられます。ショーペンハウエルなどから出て来た私の思想は、性はエゴイズムの最も顕著な動物的要求のように感ぜられ、神に赴くの愛はそのありさまを一度認識して厭離した心持ちより生ずるもののごとく考えられます。そして私はことに肉体の交わりは、愛に反する心持ち、動物が共食いするのと似たエゴイスチッシュな動機より発するものと思われてなりません。私は愛の表現として性交を認めることはできません。私には天使的願求にのみよって生きたいというせつな希望があります。そして愛の動機のみにて他人に対したい、したがって女と肉体の交わりをすることは自ら許す気にはなれません。私はキリスト教的結婚というものを認めることができません。それにいっぽうにおいて私は性の要求が堪え切れぬほどに強いのです。そのためには先日謙さんにあげた手紙に「いっそ結婚したら」と思うと書きましたほどです。肉体の交わりをしないで、女性と(たとえばお絹さん)夫婦として同棲することなど、とても今の私にはできません。そのようなことをすれば私の心は不断の心の混乱と圧迫とに苦しむばかりです。
私の心はこの二元のために混乱します。性を捨てることは私にはできがたきのみならず、実に惜しいのです。といって天使的願求は私にそれを許しません。この頃の私はこの両方の要求がどちらも高潮するのです。この頃私には性の要求が堪えがたきほど強くなりました。ことにお絹さんのために私のこのドウアリスムスはいっそう重くかつ急になりました。(彼女は子供らしく二十一、二にしか見えませんけれど、実際は二十五で、周囲の人々は彼女の年老けるのを恐れて今年のうちに結婚させようとしているのです。彼女は私でなくては結婚せぬといい、そして私がほっておけば見るみる婚期を失います)そして私はどうも心が定まらず胸が混乱するのです。
天使的要求と性の要求とのドウアリスムスのための悩みに私は平安を失っています。そして私のこの頃の思索は「いかにしてこの両者を同時に肯定すべきか」という問題に集注しているのです。聖書の創世記には神はアダムとエバを創りてこれをよしと見給いきと録してあります。神の創り給いしものが、神の聖旨のままに連るならばそのよきものでなければなりません。私は創られたるままを肯定するように考えるまでは、私の思索が間違ってるのではあるまいかと思います。そしていかにかして神の前に性を肯定せんものと考えるようになりそれが尊い謙遜な道と思うようになりました。私はこれからそのために思いを凝らしたいと考えます。聖書のなかの「雅歌」には女の肉体をどんなに美しくたとえ、とうとく讚美してありましょう。私もその黒髪や美しい眸をめでずにはいられません。そして創り主の前で、その被造物として女と並んで立ちたいと思います。それにはいかにすべきか、私はそれを考えねばなりません。けれど私はどのようにしても愛と知恵との天使的なるあこがれが性と相容れないものならば、いさぎよく女性にさようならを告げて勇猛心を起こして天に昇らねばならぬとの覚悟はいたしているのです。愛はあくまでも真理であることは疑いません。この愛に背くものはいかなるものといえども悪しきものとして私は斥けてもいいと存じます。純なる愛の動機にもとらずにどのようにして性を私の生活にとり入れたらいいものかを考えたいのです。私はまことに恥ずかしながら謙さんなどよりもこの問題により多く苦しまなければならないような性格の者なのです。私はしじゅうこれまでこのために苦しんできました。私の生活の乱れるのは多くの場合このためなのでした。私はあなたたちことには謙さんの前にしばしばこのような卑しい言葉を書かねばならぬのを恥じますけれど、私がそのようなものなのですから、許していただかねばなりません。私は謙さんは珍しき静かな、調和した、上品な人間だと思います。そして尊敬せずにはいられません。私はこの秋にでも上京してあなたたちと朝夕往復するようになれば、さぞあなたたちは私の粗野な部分に触れて失望なさるだろうと思い、それを恐れる気もいたします。なにとぞ私に多くを期待せずに愛して下さいまし。私ぐらい生活を乱しがちな弱い者はありますまい。手紙でもあなたたちはいつでも忙しい身でもじきに返事を下さるのに、私はいつも遊んでいながら、このように御無沙汰をいたします。これと申しますのも私の生活がじきに乱れて心がおちつくことが少ないからです。なにとぞ気を悪しくして下さいますな。
信仰の問題についても私は一つの困難に遭遇《そうぐう》いたしました。それは私が聖書をドラマとせずに約束の書として読み、宗教的気分ではなく宗教の信仰をレアルなものとしては満足できなくなったときに生じたのでした。すなわち、聖書のなかにさまざまの疑いを、それは奇蹟に対する疑いよりも、神としての言行の道徳性に対する懐疑が生じました。そして私は宗教が真に「実」なるものとして私のなかに据わるまでには、まだ問題が多く残されてあることを感じだしました。そのようなわけで私は病院にいたときのように平和でいることができません。けれど私はそれらの混乱にも悩みにも耐え忍んで参りますから心配しないでください。
私はこの月の末には別府を去ります。そしてあるいは妹と別れて私だけどこかの淋しいところに隠遁するかもしれません。思えば別府での生活は私にはまったく失敗でした。私は取乱した姿で人の前に出ないように、しばし私の心をととのえるために二、三か月の間退隠させてほしい。私が人々を愛する用意をするためにしばらく暇を、愛する人々にこいたいと思います。なにとぞ私が自らの安逸のために煩わしき世よりのがるるものと思って下さいますな。私はトマスより違った気持ちで隠遁します。私は塵《ちり》の巷《ちまた》に兄弟たちと共生すべきものなれど、しばしの暇をこい求めるのです。あなたがもし呉にいらっしゃいますならば、おそらく私は呉より船にて七、八里ばかりの、ある瀬戸内海の小さな島にて、あなたとなつかしい握手をするようになるでございましょう。
謙さんの送って下さった「百合の谷」は毎朝読んでいます。私は親しみを感ずることのうれしさに、訳されたほうを読んでいます。妹も読んでいます。謙さんには別に手紙を出しますけれど、この手紙は謙さんにも見せてくださいまし。「百合の谷」の所感などは、謙さんへの手紙に譲りましょう。冗漫な、乱れた手紙になりまして失礼いたしました。くれぐれも御自重なさいまし、夏にお目にかかれればこのように悦ばしいことはございません。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛[#「久保正夫氏宛」は底本では「久保正氏宛」] 五月二十三日。別府温泉より)
たのしき畏ろしき未来のために祈る
私が久しく手紙を出さなかったものだから、あなたに御心配をさせてまことにいけないことをしました。まったく私の心が乱れて悩ましいためでした。なにとぞ憐れみゆるして下さい。あなたはよくも私ごときの運命を、あなたの身の上の一つの重大なことのように、よく気にかけて下さいます。私は時々不思議なような私がそれに価しないような気がすることがあります。そしてまた時おりはあなたが私とほんとに朝夕往復するようになったら、私のなかの卑しい部分に触れて失望なさりはしまいかと怖れることがあります。なにとぞ私をつまらないものと知って愛して下さい。たとえ私は卑しくとも、卑しいことを恥ずる感情は失ったことはなく、またそれを私のわずかの恃《たの》み場として守っていますから。私はドストエフスキーなどを読むときに、いつも彼が正直羞恥、信ずる心、容れる能《はたら》きなどを問題として、インテレッシイレンしているのに、深く感動されます。そしてカラマゾフなどを読んでも、裁判官の前に立つ荒くれ男のミチャが、かえって説教者としての威力を持ってるところなどに動かされます。そして私も卑しいけれど、純な高いものに憧れる心は持ってると思って悦びました。ドストエフスキーのような人から「倉田はいけない人間だ」と裁かれるならば、私はほんとに失望するだろうと思われます。私は妹からあなたの平常の暮らしぶり、話しぶり、正夫さんとの交わりぶりなぞを聞いて、まことにゆかしく感じています。そして私たちの交わりの荒々しいのを恥じます。あなたは清い優しい祝福されたる素質を持っていらっしゃるように私には見えます。なにとぞ今のようにして成長していって下さい。この頃は試験の煩わしい準備なぞで、うつうつしい時候ではあるし、暮らしにくいこととお察し申します。柔らかな緑の色の重く濃くなる頃は、最も頭の不快な気分に閉ざされるものです。あなたのいつかの妹へのお便りにも、幽鬱《ゆううつ》ななやましい気分がもられて見えました。なにとぞからだを大切にして、頭を使い過ぎないように注意して下さい。
先日正夫さんに出した私の手紙に、私のこの心のありさまを詳しく書き、そしてその手紙はあなたにも見ていただくように申しておきましたが、私は一つの信仰の問題、また一つは性の問題のために心が安らかでありません。私はけっして証拠がなくては信じないというのではなく、旧約聖書に現われる神の意志によきものとして受け取りがたいところが多いのと、キリストの言行にまだ私の道徳的懐疑が残るために、キリスト教に対する私の信仰が動揺いたします。すなわち私は、エホバとキリストとの言行が最深の真理を含むがゆえにのみ、キリストを信じたいのですが、聖書に現わるるところでは私はまだ少ししか信ずることができません。私はヨハネが「われその栄えを見るにまことに神の子として……」といってるのに注意します。ヨハネをしてキリストを神の子と信ぜしめたのは、イエスの現わした栄でありました。私もそれに似た心持ちで、イエスの言行の最深の真理を含めるのを見てイエスを信じたい。そのほかには何の証拠も求めたいとは思いません。しかし私はまだそれを疑います。イエスの言行はまだ相対的のように思われるところがあります。ことにエホバの言行は、私にしばしば失望と懐疑とを生じさせます。私はかかる考えを起こすには、すなわち主を
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