思われません。私はもし神様のみ心ならば魂のことにつきて人に語る説教師になりたいと思います。愛することや、赦すことや、忍ぶことや、祈ることについて私の同胞に語りたい。そしてその材料を学問からでなく人生のさまざまな悲哀や、不調和や、神との交通やすべて実験から得たい。そして私の魂をできるだけ深く純に強く博《ひろ》くすることによって直接に他人に影響したい。じっさい世の中の人はどれほど自分で自分の魂をはずかしめているかしれませんと思います。キリストは「罪の価は死なり」といいました。たとえば面をつつんだ皇后は少しの侮辱にも得堪えぬように魂は少しの罪にも死するほどデリケートな純潔なものなのではありますまいか。近代人の最大の欠点は罪の感じの鈍くなったことだと思います。中世の人はもっと上品であったように見えます。私はモンナ・バンナが夫に貞節を証するために、「私の眸《ひとみ》を見て下さい」というのを実に純潔な表現と思いました。私は私の眸を涼しく保ちたい。憤怒や貪婪《どんらん》や、淫欲に濁らせたくありません。そしてそのためには祈りの心持ちを失いたくありません。ショーは「人間は試練の刹那《せつな》に使命を知る」と申しました。私はこの幾年のライデンは試練というにはあまりに小さかったとも思いますけれど、私の最善の仕事は、哲学者でも、芸術家でもなく説教師ではあるまいかと思うのです。私は神様にもっともっと親しく交わらねばなりません。そしてたえず、祈りまた祈りして聖旨を待ちましょう。私は神様の導きを信じます。あなたはいかに思って下さいますか。
それからお絹さんのことを少し書きます。彼女は私に熱く恋しました。そして私を悩ましました。それは彼女が思い乱れて仕事は怠り(彼女は働かねば食えない境遇です)食事、睡眠は乱れ、他人との交渉を不義理にしだしたからです。私の最も怖れたとおりになりました。私は恋を重しと見ない心の境地に達してる淋しい人間です。私は宗教的空気のなかに彼女を包んで愛しました。そして他人を愛する心の妨げられるような愛し方で私を愛されることはいやだと申しました。そして仕事の大切なこと、心の安静の貴重なことを諭《さと》しました。しかるに彼女は私に結婚を申し込みました。私は肺のことも考えねばならず、収入のこと、使命のことなど考えればとても決断できるわけはありません。いろいろと煩悶《はんもん》した末私は次のごとく答えました。
「もし神様の聖旨であるならば結婚しましょう。聖書にも「誓うなかれ」とあるごとく、私は約束はしません。神様は私を独身ではたらかす気かもしれないし、ほかの女を私に※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《そ》わすみ心かも知れません。二人はいっさいの誓約はせずに神前に恥じぬ交際を続けて行きましょう。そしてみ旨なら結婚しましょう。」
そして私は聖フランシスと聖クララとの交わりを語り、恋のはかなきことと、他人を愛することのできぬような独占的な愛の純なものでなきこと、純粋な愛は仕事や生活の調整を乱すものでなきことを語りました。そして私のH子さんとの恋のほむべきものでなかったことを語りました。
そのうちに彼女は患家に働きに行き二週間ほどになります。そして今日の彼女の手紙を読んで私はまったく安心しました。彼女はいろいろと思い悩んだ末自分の私に対する愛の不純なことを覚り、かつ悔いました。そして恋のエゴイズムと煩悩《ぼんのう》とに気がつき、もっと聖なる愛にて私を愛する心になったとみえます。しかしそこには涙となやみと人工的な努力があきらかに見えています。私はかわゆくてなりません。私は彼女の一すじな恋の仕方を愛しました。全体に私には気に入る多くの点を備えているのです。しかし私は神を畏れ、彼女の運命を傷つけることを怖れて重々しく、大切に、彼女を損わぬように全心を傾けています。
しかしあるいは私のような病弱な者を恋せねばならぬのが彼女の一生の悲しき運命になるのではありますまいか。人間と人間との深き交わりはまったく運命ですからね。私は何事も神の聖旨を待ちます。けっして軽々しいことはしませぬから安心して下さい。それにしても私の病気はどうなるのでしょう。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 三月六日。広島県病院より)
病院よ、祝福あれ
あなたたちは私らからの便りを毎日心持ちに待っていて下さったことと思います。そしてあまり便りがないために不安にもなり、また愛より起こる軽い腹立たしさを感じなすったことと存じます。兄妹はこの一週間がほどは宿を探すために心あわただしくてしみじみと手紙を書く時を持ちませんでした。私らはその間に二度宿を移しました。そしてやっと今の宿におちつくことができました。なにとぞ私らの怠慢を許して下さいまし。
病院を出る時には物悲しい思いをいたしました。癒らないで出るかなしさを人々に慰められるのがいっそう苦しゅうございました。私は百三十幾日の間親しみたる人々に別れを乞いに行く時にはセンチメンタルになってしまいました。そして「幸福に暮らして下さいねえ」とだれにもかれにも申しました。絵を分かった肺の悪い友は非常に落胆して私と別れることを大きな幸福を失うことでもあるかのように嘆きました。いよいよ病院を出る時には玄関まで岩井の母親と嬢さん(聖書の友)や二、三の知人が送ってくれました。肺の悪い友は歩行してはいけないと私が止めるのをもきかずにしいて玄関まで出ました。蒼《あお》ざめた顔には興奮した眼が不安に光っていました。私は門を出る時振り向いてその病友の顔を見た時これが一生の別れだと思いました。門を出ると春浅き街は風がひどく吹いていました。私は「病院よ、祝福あれ」と声を立てて叫びました。そして「みんなみんなしあわせに暮らして下さい」と心のなかで涙とともに祈りました。その日から私は市内にある叔母の家で数日間暮らすことになりました。この家庭は富み栄え、そしてそれがためにかえって不幸なる多くの家庭の一つでした。私はこの家庭にあっては不幸でした。あまりに物質的なる家庭の空気は私の傷《いた》める心にふさわしくありませんでした。私は私のこの頃の他人の幸福のためにおせっかいな心から、そしてキリストの「なんじらは世の光なり、地の塩なり」といわれた言葉などを思い出して、少しく叔母に精神的に和らげられたる家庭について語りました。私は謙遜なる心持ちでいったのだけれどあまり好感情は与えませんでした。また私はお絹さんとの交際に関してきわめて不愉快な疑いをかけられているので、いっそう気まずい心地で暮らさなければなりませんでした。それで私はもっぱら、脊髄病《せきずいびょう》で幼児よりほとんど不具者となっている私の従妹《いとこ》と語り、慰めることによって日を送りました。そのようなわけで、艶子から見舞いに来るという電報を受け取った時には福音《ふくいん》のごとく喜びました。愛する妹は天使のごとく私に来たりました。そして謙さんから美しい西洋の草花の束や、正夫さんからの絵や小説やそして二通の優しき励ましとなぐさめの手紙を受取った時は、まことに幸福な思いに満たされました。私はそれらの幸福をけっして私の受くべき当然のものとは思いません。神様の恵みと感謝いたしました。私はこの頃はあなたたち二人の温かい静かな愛情と理解とに生きています。そしてそれをあたりまえなこととは思われません。どんなに感謝しているか知れません、なにとぞいつまでも愛して下さいまし。
私は、けれど、お絹さんとははかない別れをいたしました。彼女は患家先きに働きに行っていました。そして私は厳重な叔母の家にいるので、女と外で会う機会などつくることはできそうにもありませんでした。もとより彼女は患家を去り私はあえて叔母の心を乱さすならば会えないことはありません。昔の私ならば何の苦もなくそうしたでしょう。けれど私らは交際の初めから「他人を愛しえないならば私らの愛は尊きものではない」と決めました。病人の看護と叔母の心の平和とを犠牲にして別れを惜しむことはよいとは思えませんでした。それで二人はただ二時間ほど患家さきから暇をもらってある旅館であいました。彼女はどんなに泣いたでしょう。そして別府までついて行くといいはりました。そして絶望的な様子をしては「これが一生の別れだ」と幾度も繰り返しました。私は彼女をなだめ心を静かにして人生の悲哀を耐え忍ぶこと、二人の将来は神の聖旨のままに任せ奉ること、もし神のみ心ならばいかに別れても必ず※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]わせ給うこと、私らに最も今大切なることは聖旨を呼び起こす熱き力ある祈祷なることをねんごろに説きました。そしてあまり彼女のなげく時には、どうせどの女をも恋することができないのならば、この女と共棲しようかとも思いました。けれど私は神を畏れました。何の誓もいたしませんでした。二人がどうなるか、何の私たちにわかりましょう? 私たちは神様の領分を侵してはなりません。
けれど私は私の車を送って旅館の灯《ひ》の暗い下に立ちつくしていた彼女のあわれなる顔を忘れることができません。あるいはこれが一生の別れになるのではありますまいか。私たちには未来のことは少しもわかりません。けれど翌日妹とともに広島を出発して下関に向かう汽車のなかで「また会う日まで」の讚美歌を唱った時には、私の心は彼女を抱き、彼女を守り給えと一心に祈っていました。
汽車のなかは案じたる眩暈《めまい》の発作《ほっさ》も起こらず安らかに下関に着きました。その夜は貧しき従姉の家に一泊し、翌朝門司よる筑紫路となり二時間を経て別府に着きました。それから今の宿におちつくまではあわただしい不安な一週間を送りました。私は傷つける心を抱いて春のほしいままな温泉宿にあることは好みませんでした。それで妹にもたのんで別府の町から一里はなれた、鶴見山という残雪を頂いた山のふところにある観海寺温泉に行くことに決めました。霙《みぞれ》の降るある朝私らは一台の車には荷物をのせて山に登りました。野原のようなところや、枯れ樹立《こだち》ばかりの寒そうな林の中などを通りました。そして峻しい坂路は車から下りて歩かなければなりませんでした。それは痔の痛む私にはたいへん困難でした。宿は静かなというよりも寂しい山の中腹に建てられ、遠くにかなしそうな海がひろがり、欄によれば平らかな広い裾野《すその》の緩かなスロープが眺められて、遠いかなしい感じのする景色でした。浴客は少なく浴槽は広くきよらかにて、私の心に適いました。
私はこの地にてはできるかぎり宗教的気分にみちた生活をする気でした。キリストの四十日四十夜の荒野の生活、ヨハネの蝗《いなご》と野蜜とを食うてのヨルダン河辺の生活、などを描いてきましたので。
けれど私にはここにも十字架が待っていました。宿に来てからは妹の健康は異情を呈しました。それは山の上には風寒く北向きにて日あたり悪しくまたあまりに寂寞《せきばく》なるためでした。妹は何となく不幸そうに見えました。そして外は風雨の烈しく樹木の鳴る夜に寒そうな淋しそうな顔をして少しは燈火の美しいところへも行きたいと申しました。妹はついに風邪《かぜ》にかかり発熱しました。そして食事もせずに寝ているところへ知人の医学士が来て、妹の肺は少し怪しいと私にだけひそかに注意しました。そして山の乾いた冷たい空気はいけないからさっそく下山するように勧告しました。私は広島駅で妹を迎えた時からそのやせたのに気がつきました。そして食事のすすまぬのを心配していました。私は妹がもし肺病になればと想像して戦慄《せんりつ》しました。そして私は病人ではなくて妹のほうが病人のように思われました。私は自分の生活のために、弱いまだ花やかなものを慕うにふさわしき乙女を、冷たい、淋しい山の上に連れて来たわがままを後悔しました。そして私の趣味を捨てて妹の健康を救おうと決心しました。妹は可憐にも私のために山の淋しさも寒さも燈火のなつかしさも犠牲にする気で少しも不平はいわぬのみか、かえってあなたが好きなら山におろうと
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