。あの時呪わないでしあわせであったと思うでしょうね」というところを書きました。私は自分でかきかき涙がでました。そしてお絹さんとも一生別れずに仲よくしようと思いました。
 私は東京に行ってみたく思います。今のうちに十分養生して来春にはぜひ上京してみなさんにお目にかかりたいと思っています。でも来年のことをいえば鬼が笑いますけれどね。今日はこれでやめます。いずれまた。寒いゆえに大切になさいませ。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 十一月十一日。丹那より)

   久保正夫氏宛

 六号雑誌にのせてあるあなたの論文を気をつけて読みました。
 あなたのものにはいつも内面的な、冷たい情熱がこもっていて強い感じがします。あなたはたしかにストリンドベルヒの性格と似たところがありますね。それは時として、はげしさが内攻して文章の上に反映するために一種の冷酷(言葉が不適当ですが、あなたは私の意味をとって下さると信じています)な強さを表わします。しかも一つの愛と不幸の意識から流れを汲んでいます。魂の強さが読むものに迫ります。ベートーヴェンが江馬さんには涙を、あなたには、頭と胸の痛みを価したというのはつよく私のこころにひびきました。私にはあなたの不幸がよくわかります。
 その不幸は、しかしながら、あなたの特色をなすもので、あなたの魂の優越をあかしするものであると思って自ら慰めています。あなたの前に私はある不幸な一生涯の旅を想像せざるをえません。あのニイチェやストリンドベルヒなどの負わされたような運命を。けれどその運命はいつかは恵みによって、あなたに、祝福さるべきものとなることを信じて、私はある意味で安んじています。
 人間のイデアで、人と人との相互の要求を自主的な犠牲的精神によって、エゴイズムの仮定なしに説明しようとする方針(あなたの付記の意味に従って)は私もたしかに一つの道理ある考え方として注意させられました。私はあなたがその方針で、あなたの対人関係の意識を生かしてゆかれることを希みます。
 ただそのような思想が、人間のシュチンムングを動かしうるには、哲学的努力を要し、理智と意力とに待たねばならず、したがって高踏的になりはしないかと思われます。罪とか、報いとか、祈りとかいう考え方は、鍬《くわ》を持つ農夫にも、心で会得《えとく》することができるので、その実践的の気持ちを支配する力を持つために、民衆的となりやすいいいところもあると思います。一つの共存の意識が、違った表出の仕方でおのれ自らを外へと道を求めるのであろうと思います。
 人生論者たらんとする、その要求を、根拠づけているところのあなたの感情を私は深く尊敬いたします。
 私の脚本は、も少しで完成します。今六幕目の終わりを書いています。親鸞聖人の臨終は、一つの罪の意識が救われの意識となって、この聖者の魂が天に返るように、罪を持ちながらも、一つの調和した救済の感じの出るようにかく気でいます。ファウストのグレートヘンの「審判された」が「救われた」となるように、私も親鸞の煩悩に苦しみつつ死ぬるのを成仏《じょうぶつ》と読者に感ぜられるように描きたいと思っています。最後の幕切れは、親鸞の魂の天に返れることをあらわすために、平和な、セレスチアルな音楽で終わらせたいと思っています。
 私は早世する兆《きざ》しか、もはや老年期のような調和的なものがかきたいのです。ゲーテのあるものは私の心に適います。私はゲーテの影響で、独白をたくさん使いました。私は独白は古典的な感じがして好きです。
 あなたにほめてもらったので、大分自信がつきました。どうも技巧が未熟で困りますが、だんだんとじょうずになれることと思います。気のおつきになったところは、遠慮なく注意して下さい。
 ここまで書いたところに、艶子が来ました。ちょっと、三次まで叔父の法事に立ち会ったついでに見舞いに来てくれたのです。蜜柑《みかん》をむきつつ話しています。あなたによろしく申してくれといいました。二、三日泊ってすぐに帰るでしょう。
 私の健康はだんだん恢復してゆきますから喜んで下さい。春にはお目にかかりたく思います。私も写真をとりましたから、数日の内にお送りいたします。脚本は、艶子の「禍いの日」というのを、謙さんのところに送りましたから、見てやって下さい。前にかいた「臆病にされた女」というのをそのうちにあなたのほうに向けてお送りします。私のは、遅筆で、汚なくて、清書しなくてはだめですから、また、いつか見て下さい。すぐ原稿用紙に、きれいに得かかないのです。私は「人類の愛」という喜劇をかく気です。愛を口にして隣人の運命に不注意な文士の虚偽に対する私の鋭い批評です。
 茅ヶ崎の大沢さんは実に同情します。あのような運命の下に苦しんでいる人に、なぐさめとなるには、いかにしたらいいのでしょう。あなたは自分の不幸な心で、なお静かな、つつむような同悲の情をおくって、よくなぐさめておあげなされました。今度お便りなさる時には、同じ病気を耐え忍んでいる私からの、ねぎらいの挨拶を伝えておいて下さい。
 また江馬さんにも私の好意を伝えておいて下さい。何事もすぐれた魂を持つものの寂しさだと思って、忍耐なさるように。
 私は「愛と知恵との言葉」のエッセイを続けたいのですが「生命の川」はお金が高くかかるのでたくさんかけないので困っています。新思潮もお金がかかるし得かきません。もっとフェボラブルな発表の場所がほしいと思っています。
 謙さんにソフォクレスを送ってもらいました。イフィゲニーやタッソーも読みましょう。詩はわかりにくくて困ります。
 今日はこれで失礼します。ではいずれまた。[#地から2字上げ](十二月十三日。丹那より)

   淋しき浜辺のクリスマス。ソフォクレスの悲劇について

 よいクリスマスをあなたに祈ります。
 東京の街《まち》はショーウィンドーのクリスマスの祝いの飾りなどで美しいことと存じます。妹とそのようなはなしをいたしました。
 ここは淋しい漁村とて、この救い主の誕生を祝う何の美しい催しもありません。人は早くから戸を鎖ざして、海から吹いて来る寒い風をふせぎ、一日の労働――この頃は全村こぞって、牡蠣《かき》を殻からこわして出す見るから冷たそうな仕事を一日じゅうしています――の休息をするために炉辺に集まっています。私たち三人も今夜は仕事を休んで、火を囲んで親しい話や無邪気な遊びをして過ごそうと思っています。庄原であなたとして遊んだ花合わせなどをして、――外は風が吹いてすぐ裏の小山の森が淋しく鳴っています。
 クリスマスを祝うという習慣は本当に美しい習慣と思います。貪欲な人間たちがよくこんな習慣を津々浦々にいたるまで行き渡るように守るようになったと不思議に思われます。やはり人性の善と愛の勝利というようなことが考えられます。
 ヤソの生きていられた時には拒んだ人たちの子孫も、今は神の子としてあがめるのですね。これほど民衆化せられるところにヤソの人類的な力があると思います。「天には栄え、地には穏やか」でなくてはならないのに、ヨーロッパでは今も戦争しているのですね。陣営に屯《たむろ》している兵士たちはどんなに不幸なクリスマスを持つことでしょう。家に残っている妻や子は? あなたのお手紙にあったラスクの戦死したことなど思われます。あなたのお写真はよくとれていましたね。少しお瘠せなさいましたね。あまり心を苦しめなすったせいではないかと思いました。魂の悩みを持っている人のように見えました。私の写真はずいぶんふけてうつりました。私はいったいふけました。みなそれを認めて驚きます。私はもうユーゲントを見捨てました。もう一人前になりました。私は老年期の完成を急ぎます。早く堅まりすぎるという人もあるでしょうが、私はあらかじめ自分を七十も八十も生きるものと定めておいて、プログラムをつくって生きることはできません。堅まりたいと常につとめて、しかも堅まれないのが真実と思います。それに私はとても長生きはできません。ゲーテが八十までに成就したことを、私は四十くらいで成し遂げなくてはならないのですから。
 ソフォクレスのフィロクテテスを読みました。今から二千年の昔にこのようなものが書かれてあったのだと思うと驚きます。フィロクテテスの深い不幸な魂の呻《うめ》きは、私の心につよく響き、そしてなぐさめに近い同悲の情を呼び起こしました。ヨブなどの運命を思いました。私はあたかも鬼界ヶ島に流された俊寛をドラマに描こうと思っていたので、ことにおもしろく読みました。私は俊寛が鬼界ヶ島に流されて、年老い一緒に流されて苦しみと淋しさを分かっていた二人の仲間は、迎いの舟が来て京に帰り、ただひとり残された淋しさを描こうと思うのです。そして清盛に反抗するいっさいの手段は尽きたけれど、ただ一つ呪うことはできる、それで平氏の子孫の裔《すえ》にまで呪詛《じゅそ》を遺して死ぬところを、その呪詛を眼目にして描こうと思っています。
 私は今は「人類の愛」という喜劇を描いています。愛を口にして、隣人の運命に不注意な文士のカリカチュアを描く気です。私はたくさんかきたいものがあるのですが、生命の川は一ページ約五十銭の印刷費を自分で持たねばならぬので、短いものしか描かれず、困っています。謙さんに新思潮を交渉してみてもらったのですが、これもお金を出さなくてはならないそうです。どこかお金なしで作を発表できるところはありますまいか。「愛と知恵との言葉」ものせる余裕がないのです。「出家とその弟子」は完成しました。生命の川は正月を休刊したので、二月からのせると四月にならなくては終わらないので、ほかのを出せなくて困っています。江馬君にでも頼んで、どこか私の作をお金なしで、発表できるところを工夫してみて下さいませんか。ただし、気らくに、責任を持たずに考えておいて下さいというだけですよ。なければなくてもいいのです。艶子のものも、どこかお金なしで発表できるところをつくってやりたいのです。もしあなたの力で何とかなれば考えておいてやって下さいませんか。
 茅ヶ崎のほうは、そんなにたびたび血が出ては実に淋しいでしょう。あなたも慰めかねなさいますでしょう。その忍受して耐えていらっしゃるのを見るのははたの人はいじらしいでしょう。私はこの頃は神経痛で腰が痛むので、不自由を感じています。どうせ病身なのですから、もうなれています。あまり案じて下さるな、私は病苦の間から仕事をする気です。
 アヤスというのを私も読みましょう。私はソフォクレスはたいへん好きになりました。今日もソフォクレスの彫像の写真を出してながめました。あなたのおかげでいろいろないいものを読まれることを感謝いたします。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 丹那より)
[#改ページ]

 大正六年(一九一七)


   芸術創作とパンの問題

 新しい年が来ました。今年があなたに豊かな祝福をもたらすことを祈ります。東京の松の内の賑わしさなど想像いたします。どのようにしてお過ごしなされますか。
 丹那は淋しいお正月です。私たちは二人で心ばかりの祝いのお雑煮餅もいただきました。艶子が二十九日に帰ってからはたいへん淋しくなりました。
 私はやはり丹那に隠遁してひそかな松の内を送るでしょう。階下の農夫の夫婦と話したり、近所の子供たちでも集めて花合わせでもしたりするでしょう。
 あなたの新潮社から出されるトルストイの「人はどれだけ土地を要するか」という小話はかつておもしろく読みました。平和ということが第一なのを忘れて貪欲になってはいけないのですね。土地を耕して生きてゆくのが一番安定した健全な暮らし方なのでしょう。
 あなたのお手紙にあるように、私も私のパンを父母の労苦から得ているのが気になってならないのです。けれど鍬《くわ》を持つには健康が侵され、ペンではお金を得るどころでなく、お金がかかるようなしだいで困っています。あなたのおっしゃるように、私たちが自分たちの雑誌を持ち、それを自分たちの労働で支えることができるならばフェボラ
前へ 次へ
全27ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング