やっと帰宅しました。両親の悲哀を耐えた沈痛な顔を見て私も今は悲哀に身を任かしてはならないと心を強くしました。しかし姉の枕元に座した時には私は勇気を失ってしまいそうになりました。それは恐ろしいほど瘠せ衰えて死の影はもはや顔にかかっていました。姉は二人の弟妹を見て泣いて喜びました。私たちは励ます言葉もありませんでした。人間の顔はいかに醜く恐ろしくなりうるものでしょう。あの美しかった姉がこのようになろうとは想像もできませんでした。祖母も病床に臥したまま動かれず、老耄《ろうもう》して白痴のような矛盾《むじゅん》したことを申しますし、一家は二人の看護で秩序を失っていました。それから二十日間姉は苦み続けました。そばに見ているのは実にかわいそうで堪えられないほど苦しみました。しかし死ぬ三日前から、苦痛はほとんどなくなりました。私たちはよい兆候なのかと思ったら医者はもう二、三日の命だと宣告しました。三日たちました。七月十五日の朝、姉は虫が知らすとでもいうような死の予感を感じたらしく、和枝(生後七十日足らずの姉の子)を見せてくれと申しました。和枝は乳がないので乳母の手で育っていたのです。姉は不幸な、嬰児の顔をしみじみ眺めていました。その日の午後姉は一同を病床に呼んでくれと父に乞いました。その時、医者はもはや臨終であると告げました。一族は姉の枕元に集まりました。それから息を引き取るまでは実に美しい、尊い感動すべき光景でありました。姉は一同に別れの言葉を告げ、両親に愛育を感謝し、祖母の身の上を労《ねぎら》い、自ら合掌して念仏してくれよとたのみ念仏の声につつまれて消ゆるごとくに死にました。死ぬ間際まで意識は水のごとく澄んでいました。死ぬ三分間前に姉は「百三さん、百三さん」と呼びました。私は姉の手を握りました。「あなたは私を可愛がってくれたわね、兄妹のなかでも……」ここまでいった時にもはやものをいう力がなくなりました。「お前は見あげたものだ、このような美しい臨終はない、私もじきに後から行くぞ」父はこういって涙をこぼしました。まったく、十分間後に死ぬる人間の口からさまざまないじらしい道徳的な言葉を聞くのはやる瀬のないようなものですね。私たちはみな本能的に、「じきに行くよ」「私もじきだじきだ」といっせいに申しました。そして本当にじきだという気がいたしました。私もじきに死ぬのだということが一番私たち自らの慰めになりました。医者もこのような美しい臨終に立ち会うたことはないといって賞めました。全く上品往生《じょうぼんおうじょう》というのはかような死に方をいうのであろうと思います。並みいるものは尊い力に打たれました。私は姉は今はもはや美しい仏となって聖衆《しょうじゅ》たちと交わり、私たち生き残れる者をあわれみ守っていてくれることと信じます。
姉の三十年の短かい生涯は幸福なものとはいわれませんけれど、今は安らかな国に観音様のようになっていることと信じます。死は安らかな、休息であろうというような、死のなぐさめというような感じがいたします。その人にとって地上の生涯は苦しみとかなしみの連続であった、人は受くべき罰と負うべき重荷を果たして今こそ安らかな時は来たという気がするであろうと思います。人生はさまざまな苦しみと悲しみから脱することはできません。彼岸の安息の希望なくば私たちは永遠の地獄に住まねばなりますまい。私はやはり刑罰の思想が一番この世界のイヴィルを説明して心に適うように思います。私たちはかつていつか悪いことをした。その罰でこの世では苦しまねばならない。その負担を果たしてかの国に往生することができる。なぜに世界はコスモスでないかということは私たちの道徳的意識を満足させるためには、ただ私たちは悪いことをしたからだと思うよりほかに道はないように感じます。ストリンドベルヒは It is a crime to be happy and therefor happiness must be hastized. といっています。地上の幸福というものは望みうべからざるものであるのみならず罪深き人間には不合理なものではありますまいか。神の法則は一度人間を罰しなくてはならない、その後ろに、むしろそのなかに救済はあるのでありましょう。
私は姉の死から深い感銘を受けました。私たちもじきに死ぬのです。なつかしいかの世界の民となるために、この世では一つずつ負担を果たさせてもらわねばなりません。ああわれらモータル! あるいは今年の夏には他の二つの不祥に遭遇《そうぐう》せねばならぬかもしれません。私は葬式後|初七日《しょなのか》の喪のあけぬまの、〔fune`bre〕 な空気のなかでこの手紙を書きました。私自身は淋しく強く生きます。人生はどのような畏ろしいことが起こるかわからないのですから、いつも運命を受け取る覚悟と謙遜とが必要と思います。あまり永く御無沙汰したから今日は私のことのみ書きました。姉の戒名は釈貞室妙証大姉と申します。
一片の回向《えこう》をお願い申し上げます。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 七月二十日。庄原より)
久保正夫氏宛
お手紙読みました。
ひとりの姉を喪うて二七日の法事もすまぬうちに、尾道から今ひとりの姉の病気篤しとの電話がかかって、父はあわただしく尾道に参りました。それから三日後にその姉の死去の電話がかかりました。母は三年前に別れたきり会わないので、見舞いに行くといってたのが、急に死なれて臨終にも間に合わなかったのを残念がってほとんど狂うように泣きました。私と妹とは両方から取りすがってなぐさめかねつつ共に泣きました。同じ月に二人の美しい若い娘を失った母親を何といって慰めましょう。二、三日後に父は疲れたかなしみを耐えた顔つきをして帰宅しました。父は物静かに臨終や葬式の模様などを話しました。母はまた泣きました。私と妹とは頭を垂れて聞きました。その後の私の宅の空気は喪の感じにこめられてうち湿っています。母が夜な夜な仏の前に火をともして片言混りの経文などあげているのも哀れですが、ことに老いたる父の忍耐深く、老母のこれも遠からぬ死に脅かされているのの手あてや、家事を支配して倦むことのないのを見るときに、私は気の毒でなりません。私も気がくじけて手紙をかくのも物憂くて、こんな御無沙汰になりました。お許し下さい。
あなたのお宅も相変わらずの不調和で、そのなかにあなたが棲《す》んでいられるのは何ともおいとしいと申すほかはありません。おつらいことと深く察します。しかし忍耐なさい、というほかあなたを幸福にする道を知らないのを悲しみます。わけてお母上をそのような境遇に置いて見ていなければならないのはやりきれますまい。ほんとについに墓に入るまでそのような重荷を持ちつづけなくてはならないようだったら、そしてそのような運命は人間のみな負わねばならないもののように私には見えだしました。やはりトルストイなどの考えたような、罰せられたる、負債を払う生活というのが人生の真の相のような気がします。私は父母に向かっても現在の不幸のなかにあって、しあわせな未来を約束することもできません。
先日父と二人で種々と話しました。父ももはや未来のしあわせなこの世の生活には希望をつないでいないように見えます。人生はこうしたもの、それは何かの報いであって、墓のあなたにのみ安息を待つ心になっています。そして私の心持ちとよくあい、私の話を悦んでききました。あなたの母上といい、私の父といい、まことにいとしい身の上と思います。けれど私の父はつもる不幸を耐えてきたおかげか、人生に対するさまざまのかなしみにもなれ、心の自由と愛とを穫《え》ているようです。
私は静かななやみに練らされた心で日々の努めをはたしつつ暮らしています。からだはまず障りのないほうですが疲れやすくて困ります。肉のとらわれを脱して、高きに翔《かけ》らんとねがうたましいばかりは、ますます濡れ輝いてゆくのを感じます。深く深くなりまさります。東都の天香さんは別れて後もたびたびねんごろな励ましの手紙を下さいます。その手紙のなかには私に出家することを古えからの聖人たちの例を引いて勧めていられます。一燈園では私の亡き二人の姉のために二七日と四七日の法事を営んで下さった由、天香さんから便りがありました。本田さんは一燈園で満足して日々の労作にいそしみつつ念仏の生活を送っています。虚栄心の少ない、誠実な彼女のような性格には一燈園はもっともふさわしいところと思われます。
天香さんは近く上京せられる由、その節はあなたにも会われることでしょうが、ものの考え方や、身の持ち方が、あるいはあなたには心にしっくり合わないかもしれない、とひそかに危ぶんでいます。天香さんはあたかも、あなたと私との性格の相違した部分を誇張して具象化したようなふうにあなたの前に現われるかもしれません。けれど博くして、理解の細かなあなたは天香師をもつつみうることとは信じています。
私の家は姉の死によって起こされた変動のために後始末を整えなくてはならないことになっています。あるいは一家を引きあげて東京近くに移住するような議も出ていますが、さまざまの事情ではたしていかになるかはまだ定まりませぬ。
一番かわいそうなのは和枝という子です。和枝はおそらく母とともに父をも失うことになりましょう。この間の夕ぐれも、私が亡き姉の生前中のことなど思いながら、田圃みちを散歩していますと、向こうの畦《あぜ》のようなところを乳母が和枝を抱いて、おのが家に帰って行くのを見かけました。私は近づいて乳母と一緒に姉の新しい墓のところまで歩きました。乳母は別れの挨拶を残して、林の下みちを子供をあやしつつかえって行きました。私は後を見送って立ちつくしました。私はあわれな気がして、この子を私の子にして愛してやろうと思いました。
私は読みかきすることのほかに、この頃はあわれな、卑しい仕事をしている年増《としま》の女のところに三味線にあわして歌うことをならいに通っています。
艶子はからだがやや弱く、音戸という内海に臨んだ浜辺に海水浴に行くはずになっています。お絹さんは母を輔《たす》けてよく働いています。
私はあるいは九月から千家元麿という人の「善の生命」という雑誌に「愛と知恵との言葉」という題で、短いものを、毎月組曲のようにしてしばらく書くかもしれません。九月のは「他人に話しかける心持ちの根拠について」というのです。
庄原は毎日晴れた、影のない暑さが続いています。昨夜は田舎らしい盆踊りがありました。ではいずれまた。大切になさい。[#地から2字上げ](十六日。庄原より)
われもまた病む
私は持病がまた発熱してこの二週間ばかり臥ています。どうも左の肺をやられたらしいのです。私は父母に気の毒でいけません。私の家のものの心は重たく沈んでそのうえ掻き乱れるような家事上の紛糾があります。人間の心の醜さを私は見せられました。そのために心がひどく傷つきました。この不幸つづきの喪の感じのしめやかさを損じるようないやな方面に触れました。私はいいがたきわるいふしあわせな心のありさまにあります。祈って下さい。私はたまらなくなります。私は毎度のふしあわせな私の手紙に対して、いうべき言葉はなし、でも何とか慰めてやりたく、お困りなさるあなたのお心持ちも気の毒になります。ただ祈って下さい。どうもして下さることはできないのは知っています。真実心は通います。私は永い御無沙汰をしました。その間私はさまざまの苦しみに瘠せました。物語るだけの余裕と潤いのない圧しつけられた心でいました。私は人生が呪いたくなります。祝さねばならぬというゾルレンがあればこそ心の常識を保ってはおれ、私は苦しくてたまりません。二人の姉の後を追いたくなることもあります。私の祖母も死にました。私は二つの死をまだあなたに報知していませんでしたのですね。このように数えるように並べるのはあまりに痛ましい気がします。しかし死んだのです。吉也さんも死にましたね。
あなたに不幸が訪れ
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