ちは、今は他人を救うために働きかけることを思うよりも、他人を傷つけることを恐れているところに今はいるのです。つまり自分の無力や醜劣やを感じてネガチブにばかり、反省せられる時にいるのだと思います」
「そうです、しかしそこでとどまってはいけない。宗教は力と権威を帯びねばならぬ。いったい趣味のほうから宗教にはいった人には美しい情趣はあっても力と意志との強い実行的権威がないことが多い。あなた方はそれを気をつけねばいけぬと思います。感情ほど享楽的になりがちなものはない。ありがたいと思う感情はすぐにその感情を享楽する気持ちにうつる。その後のものは宗教的意識ではない。芸術と宗教との区別はそこにある。ながめ、味わい、表現しようとするすきま[#「すきま」に傍点]のない時が宗教的意識です。芸術家には宗教にはいるのにそこに障害があります」
「ごもっともです。私たちにはそのような欠点の確かにあることは認めます。なにしろもっと実行家にならねばいけませんな。そのときに祈りやたたかいの気持ちも深くなりしたがって力も備わるのですね」
「私はたのもしい若い人たちに意志と力の欠けないように願わしい。それでないと世界を神の国にするたすけにはなりかねます。私は今度東京に行けば、その点について久保さんがたに話すつもりです」
それから天香さんは、いろいろな実験上の例をあげていかに今の世に悪の威力の強いかをお話しになりました。私はいちいちうなずいて帰りましたけれど、私の内を省みてどうも天香さんのいわるるごとき威力を感ずることはできませんでした。「なんじは主なりや」と問われて「しかりわれは主なり」と答えたキリストの自信と権威とは、罪の子であることを自覚せる彼の内にいかにして生じたものでしょうか。私には今のところ遠い彼岸の景色にすぎません。今はまだ砕けることさえもできない自分の傲慢とたたかっているばかりです。
私はこの頃は、心の歩みのなかに渋滞と障害とを感じて苦しんでいます。進みにくくて困っています。内に熟するものの力をせつに祈り求めています。享楽的な生活をしている人々のなかにいると天香さんのような生活にはただちに、力さえあれば、入れるように感じますが、天香さんのそばに来るとまたその生活にも懐疑ができて享楽的の生活にも真理のあることが認められます。私は天香さんのそばでは、その享楽的の方面のことばかりいっています。そしてはっきりした態度に出ないので天香さんははがゆがっていられます。私たちは、詩として心に思い浮かべてみたときには完全なように感ぜられても、さて実行しようとすると、すぐに欠点が目に見えて来ます。その点からいっても、ものの真実に触れるためには実行意識にならねばならぬと思います。紅茶を飲みながらのフランシスのうわさが容易なのは、私たちが紅茶を断念せずにできるからであって、さてフランシスの後を実践しようとすれば、前には何でもなかった紅茶について考えてみねばならなくなります。
書物を読みながら本はつまらないといっていても、書物を断念しようとすればなかなかできはしません。「一燈園にはいって書物にだって……」とすぐ思います。私たちの物質欲はよほど根の深い力を備えています。私たちが物質欲のなかにいて、物質欲をなみすることは容易です。それには力はいりません。しかし物質欲をはなれようとする意志を起こすときには、その根の深い力と争うて打ち克つだけの魂の実力がいります。そしてその実力はもう詩でも観照でも表現でもない。ひとつの意志です。形式からいえば、食欲や性欲のような実質的な、最も詩と遠い意志です。天香さんが私たちに欠乏しているといわれるのはかかる力のことなのであろうと思います。
キリストや釈迦はかかる力にみちたる天才だったのでしょう。四十日食わずに野にいることは、それ自身宗教の本質とは縁遠いようでも、実際は宗教の本質はかかる力の上でなくては栄えないであろうと思います。ああ思えば、私たちはフランシスの伝記など読むにたえる人間ではありません。薄き衣で寒風に立つときの肉体的苦痛などを考えもせずに、フランシスの生活を心に描くのはすまないことと思います。フランシスの伝記を読む時には、この肉体的苦痛はほとんど読者の頭にないけれど、もし私たちがフランシスをナハフォルゲンすれば、ほとんどこの苦痛だけが意識をみたすでしょう。寒風に凍えつつ私たちは、この苦痛に堪える力だけが自分の宗教生活の全部だとさえも思うでしょう。私たちに力の問題があまり生じないのは、実行的精神の欠けている証拠と思います。天香さんはその隙間を衝《つ》かれたのであろうと思います。
私はこの頃は自分に勇猛心のないことを感じだしました。自分の宗教的情操は、いまだ気分の域を出でず、自己に甘える、アイテルな部分が、おもな部分を占めているように思います。自分ながら自分の興奮のすき[#「すき」に傍点]が見えてその結果は興奮しないことになります。私はつくづく自分の器量不相応な大げさな感情の高潮のアイテルなことを知りました。力を伴のうた感情だけ起こしたくなりました。これは天香さんにしじゅう接触しているためなのでしょう。
たとえば、
「妹にこれから経済問題にぶっつからせてやろうと思います」などと自分でも悲壮な気持ちになって天香さんに話します。すると具体的な実行の話になります。すると天香さんは「それではぶつからすのではなくて、そっと触れさすのですね」といわれます。そして私は、前に起こした自分の悲壮的な感情などをアイテルに思いつつ帰ります。
そんな目にたびたび出あったので、私はつくづく自分の感情の分不相応なことを知るようになりました。そして自分の器量、実力を省みます。実行的精神を伴なわない興奮は私たちを軽くし、表現の威力を減ずるばかりですね。このようなことをいうのは失礼ですけれど、妹がいつしか「正夫さんのお手紙を読んでいると、私は軽く受け流すような気持ちになります。そのなかに不幸なこと悲しいことが書かれてあっても、そんなに心配する責任を感じなくてもよいような気がします」
と私に話したことがあります。これなどもいろいろな原因もありましょうが、正夫さんが大切な文字を軽く使うからだと思います。実力の上に建てられた表現ならば必ず威力を持つはずと思います。
とにかく私たちは、願いのなかに実が足りませんね。いいかえれば、願いがまだ祈りになっていませんね。祈りの気持ちは実行的精神の最深なるものと思います。私はこの頃何だか力抜けがしたような気がして空虚でたまりません。もっと確かな歩みをしたい。それにはやはり感情のなかからアフェクションを取り去るのが第一と思います。そうすると寂しく孔雀《くじゃく》の羽根をむしったように、自分の姿が惨《みじ》めに見えるでしょう。けれど私たちの本体はそれだけにすぎないと思います。それから実体のある感情を起こして成長して行きたいと思います。でなくては私はもはや行きづまりました。進みにくくて困ります。私たちのアイテルさは、私たちの感情のなかに本丸を据えています。
私は天香さんに衝かれてから、この頃自分の浮足なことが目に見えて仕方がなくなりました。私は不幸です。しかし「これからだ」という気もします。私は絶望はしません。
庄原の姉はやはり毎日発熱して危険の状態にあります。父は私には今帰るなといってきました。艶子に炊事をしてもらっています。お絹さんは一心に姉の看護をしています。先のことはわかりません。どんな不幸が落ちてきても私は絶望だけはせぬ気ですから安心して下さい。
私もあなたもこれからですね。私たちはのんきになってはいけませんね。コケ嚇《おど》しでない、真の威力ができねばいけませんね。大切にお暮らしなさいませ。私はあなたの成長を祈っています。
[#地から2字上げ](久保謙氏宛 五月十七日。京都より)
久保正夫氏宛
私は、明日艶子を庄原に病篤き姉を見舞うために帰らせることに決心して、妹にその準備をさせているところであります。私と妹と急に一時に帰ると姉が自分の病気が死に脅《おびや》かされていることに気がつくことを恐れますから、妹だけ先に帰して、私は少し遅れて帰ろうと思っています。姉は今日や明日にどうというのではありませんけれど、医者も恢復の見込み立たず死期も近づいているように申されると父よりの便りでありました。私は今日まで父がも少し待てと申しますので帰省を見合わせていましたが、どうも気になりますから近く帰るつもりです。私は今は姉の万一にも恢復することをはかない頼みにいたしています。姉亡き後の嬰児や養子や家事の心配などは今考えることさえ不安になりますから、私は姉の息のある限りは、ただどうぞ癒《い》えてくれるようにとのみ祈りつづけてほかのことは思わないつもりです。あれでも不思議に力を持ち返してくるようなことはあるまいかと、空だのみのようなことを考えています。
私の宅の、あのあなたが二十日ほどいらした裏座敷で、姉は寝床のなかでどんなことを考えているでしょう。生まれたばかりの子は乳母《うば》もなく、老いたる母はうろうろしているでしょう。お絹さんは看護に疲れているでしょう。沈痛な、父の黄いろい面が目の前に浮かびます。――私は来たるべき不幸の前に、心をととのえて用意しなければなりません。私はどんなことにも心を乱さずにおちついて面接できるように、私のこころを鍛えねばなりません。泣いてうろたえている時は過ぎました。涙は外にながれずに内に沁みます。私は運命の前に知恵をもって立ちます。黙ってすべきことをして行きます。あなたはあなたの魂の法則で生きて下さい。私は私ので生きます。私はあなたのこの前のお手紙を対抗的には感じませんでした。私はあなたの歩みを承認し、愛の眼で見守りましょう。私たちは遠慮なくおのおのの歩みに忠実であって、姑息な礼譲から、したいこともせずに置くようなことは必ずやめましょう。私たちには性格の強さが必要です。時として私は自分を偽っているように感じて、窮屈な気のすることもあります。私はこれからは、ことに秋から東京で日夕往来するようになれば、今よりもっと自由にふるまわせていただく気でいます。refuse したいことを refuse できないような友情はいやですからね。
私はこの頃生活が晦渋《かいじゅう》してはかどりかねているかたちです、どうも私の起こす感情には affection が多くて確かでない。もっとたしかに、甘えずに――と、こう考えています。カソリックの坊主になりたい、出家したい、乞食《こじき》になりたいというようなことを心に描いては、すぐにそれがなかなかできないことを悟ります。それくらいなことは初めからわかりそうなものだに、私にはわからないのです。自分の発心がどこまで確かであるか、自分の魂の力はどれくらいなものか、私の器量、素質の勢力をはからずに、ねがいばかりが先に行きます。いや、それは本当はねがいではなくて、そのねがいの持つたのしき感動だけです。かくかく願うというときには私はほんとうは願っていないのでした。私はほんとに願を起こしたい。「この本願かなわずは正覚を取らじ」という願を起こしたい。もし起こらぬならば、それを起こっていると自ら欺くまいと思います。真実な人がそばにいると、その自欺と自媚《じび》とははっきりあらわれます。せめて私はうそだけいわぬようにしたい、――天香さんの前で私はこうしばしば思います。
インノセンスの自由は私からたえて久しい幸福であります。私はどうしてヴァニチーがこんなにとれないのでしょう。犠牲と、Verzichtung とは、ヴァニチーの混じた感情では実行できません。アン・ジヒ・ゼルプストな目的、実行的意志でなくては、私はこの頃私の感情が不信用になって、感動というものをあまり重んじなくなりました。ある実行の動機となるためには、その感動は常に持続しなくてはなりません。
しかるに私たちの感動は衝動的なもので持続しはしないから、私たちは実行を決定する時には他の利害の観念のごときものを
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