さんがあなたを訪ねたそうですね。あの人はもとより Kunstsinn のすぐれた人ではありませんけれど、無邪気な、心の明るいよい人だと存じます。愛し導いてあげて下さい。私はこの手紙があなたの出発の前に届くようにと急ぎますから、いろいろな話はお目にかかってからのことにいたします。私はあなたと会うことばかり考えています。今日《きょう》この頃は。
 さらばあなたに安らかな、愉しい汽車の旅を souhaiter いたします。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 七月三日。庄原より)

   初めての説教

 あなたのアドレスを忘れたので手紙を出すことができませんでした。数日前にあなたの愛らしい贈り物が私たちの手に届きました。そして平和と友情とのたのしい悦びを、私たちの胸に運びました。あなたの恵みを感謝をもって受け取ります。そして私の妹がぜひその扇をくれよとねだりますゆえ、この夏のあいだじゅう私が持って、友の好意を十分に受け取った後であなたにあげましょうと約束いたしました。妹もたいへん悦んでいました。まことに嬉しゅうございました。
 久しい間待ちかねていた正夫さんはついに参りました。十日の夕方、私は私の故郷から五里はなれた、私の中学時代を過ごした小さな町なる三次というところまで迎えに出ました。私はプラットホームを、群れをなして出て来る、田舎ものばかりの群衆のなかに、美術家らしい様子をした、帽子をかぶった、正夫さんをすぐ見つけました。そこですぐに涙が出ました。正夫さんは私の手を握りました。私たちはどうしても感傷的にならずにはいられませんでした。それから二人は馬車にのって五里の間を、森や畑のあいだを、お互いの言葉を吸い込むように、よろこび味わいながら、語りつづけて、火のともる頃に私の家の前に着きました。
 その夜、私の家族を紹介したり、町端れの河ばたを妹と三人で散歩したりしました。その時私たちはあなたのことをどれほどお啾《うわ》さし、一緒にいらっしゃるのならいいのにと思ったか知れませんでした。月のない河のほとりの草の闇《やみ》に螢なども飛んでいました。私たちは秋からは上京して、みんな、朝夕、往復することができるたのしさなども語りました。
 私たちはこれから一と月足らずの間は正夫さんと毎日一つ家でたのしく暮らされるのです。ながいあいだ、私をいたわり、はるかなるいのりを送っていてくれた善き友を、このように、朝夕、私のそばに持つことのできるのは、神様の恵みなのでございましょう。私は、正夫さんが私のそばにいてくれるあいだ、私たちのミットレーベンをお守り下さいませと祈りました。私はやはり、バウエルやビュルゲルたちと一緒に、町の小さな教会にまいっていますので。
 昨日《きのう》は、私の部屋に据えてある古いオルガンで、正夫さんは、ほとんど終日、ブラームスや、ベートーヴェンなどをひいてきかせてくれました。また、正夫さんが近頃書いた短篇をいくつか読ませてもらいました。朝、町から十五、六丁はなれた森のなかの沼のほとりを散歩して、ほがらかな小鳥の声をきいたり、虫のたくみな巣をウォッチしたり、そして花を摘んで帰って正夫さんの机の上のコップに插したりしましたのちに、私たちは人生や芸術や宗教や、すべて私たちの、たましいの純なる願いとかなしみについて、互いに訴えたり、はげんだりしました。そして二人が今幸福であるがゆえに、私たち以外の人々の幸福についての、心づかいなどもしました。そしてやはり、人と人とのあいだの自由、自分の幸福を願うことが同時に他人の幸福になるような、メンシュリッヘ、フライハイトに達したい。そしてそれはできないことではないような、気がするゆえに、永く生きていたいなどと申しました。そして私たちは、私たちの今幸福であるように、あなたに今幸福でいてほしくてなりません。謙さん、あなたは今幸福に安らかに暮らしていらっしゃいますか。あなたは、あなたの家庭においてもかなり多くの心配や、弟や妹さんたちのための心づかいなどもあるでしょうね。妹へのお手紙でもそれらは察せられます。けれどそれらの心づかいはあなたの生活に尊い知恵と忍耐との味わいを滲み出させる一つの要素でもございましょう。どうぞ周囲の人々をいたわりつつ、あなたの生活を守って下さいまし、あなたはできれば、一つ勉強して何か書いて、私にも見せて下さい。私はあなたには博い、静かな、あのセザンヌの絵のような、平和な力のあるものが書けるだろうと思って期待しています。
 私は昨晩、町の汚ない教会で、町の人々の前に立って一つの説教をいたしました。その聴衆は田舎のピープルばかりです。そのなかに、正夫さんも来てきいていました。私のいったことは、あまり、理解されなかったようでした。けれど私の話しおえた時に、ひとりの農夫は私に神様のことを
前へ 次へ
全66ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング