んか。
 私の宿の近所は色街《いろまち》で、怪しげな灯影《ほかげ》に田舎女郎《いなかじょろう》がちらちらしています。衰えた漁村の行燈《あんどん》に三味線の音などこおりつくようにさむざむと聞こえます。近状知らせて下さい。
[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一月二十三日。鞆より)

   「恋を失うたものの歩む道」の原稿

 あなたの手紙が須磨から廻って参りました。何しろおもしろくないでしょう。今少しすれば自由な大学へ行かれるのだから、しんぼうなさい。原稿のことは実に不愉快で私は掲載したくありませんが、私は何よりあなたに気の毒ですし、今私はだれびととも争うたりなどすることを欲しませんから、どうでもよろしいようにして下さい。事を荒立てることは、やさしいあなたに対して、私は忍びません。どうでもよろしゅうございます。ただなるべく削除したところはブランクにして書き入れられるようにして下さい。そして私の原稿を手数ながら送り返して下さい。それは私の親しい両三名の人に、全体の文を読んでもらいたいと思うからです。雑誌へは削除した旨を、付記しておいて下さい。片輪のものを完全のものとして評されることは苦痛でございますから。
 ここに仮住居《かりずまい》を定めてからの一週間は何の目に立つ事件もなく過ぎました。私はたいてい部屋で書物を読んで暮らしています。今日は旧正月一日で、この辺はみな旧でお祝いをいたします。今日午後私は海上一時間の航路で姉の家に行きます。そして二、三日その家で暮らして、帰りに姉をつれて来ます。その時にまた書きましょう。正夫君によろしくいって下さい。私の心はこの頃また池州《いけす》に生《は》えた葦《あし》のように小さく揺らぎ出しました。魂は小さな嘆きと、とこしえなるものへの係恋とに伏目がちになっています。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一月二十六日。鞆より)

   霊の生活へ

 雑誌たしかに受け取りました。ありがたく存じます。私の文章の処置についてはともかくもあれでかまいません。安心して下さい。私のからだは日に日に快方に赴きますから喜んで下さい。この頃は永遠への思慕を痛切に感じて読んだり考えたりしています。女の内容なき幻であることは私に非常にたしかになりました。私は女によりての生命の興潮を重く見ません。私が女に赴いたほどの純熱を捧げて私は霊の生活の奥へはいって行きたい。何もかも身をもって知る態度を保ちたい。私らの案じなければならぬのは、心に大きな熱あり、飢渇ある思想感情の訪れなくなることではありますまいか。私はいい加減なところで収まって生きてゆきたくないと思います。
 便のおりに、正夫君の訳したフランシス伝の原書を正夫君に聞いて知らして下さいませんか。大切になさいますように。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 二月十二日。鞆より)

   アリストクラート

 手紙と雑誌とをたしかに受取りました。「白樺の恋人」はただちに読みました。山のなかの神々しい湖水、山の人々の生活、そして人生のある道すじを辿《たど》ってる種々の青年とその個性の運命などを感じて読みました。私にはああいう背景の前にいでたる青年の会話と、それを透してうかがわれる運命というようなものが最も興味を動かしました。山のなかの景色や人の生活も私にフレッシュな心に適うたものでした。
 あなたは故郷で静かにおちついて暮らしていることと思います。「いたるところで調和を保つアリストクラート」として、周囲に集まる弟姉らをもさしてめんどうがらずに悠々と心のバランスを保って暮らしていることと思います。私はそのアリストクラートの心を得ることにこの一年の間努力してきました。私の素性はいつも調和しないインタブルなものであることを自覚していますので、私はよほど注意しないと周囲に不愉快な空気をかもしてばかりいます。私はそれを怖《おそ》れ忌《い》んでいます。トマスが「なんじ静かなるところに退きて神をエンジョイせよ」といったのが心にしみます。私はこの頃はトマスの理想とするような生活をいたしています。私は町からはなれた森のなかの沼のほとりの一軒家に私ひとりで暮らしています。家にいるとわがままが出ては父母を傷つけ自ら不愉快になりますし、また病気の性質上、私だけはなれて暮らしています。昼は日光浴をしたり魚を釣ったり、夜は燈火をともして聖書やアウグスチヌスや主として、レリジアスなものを研究しています。あなたと同じように私は旧約聖書にたいへん興味を感じて読みます。私は祈祷《きとう》の心理を日に日に深くしてゆきます。単に詩的な感興を催してでなくて、実際的な要求から祈ります。私の恐怖は私らがどんなイグノランスから自他を傷つけるかもしれないということです。私は神の光に輝いた知恵がほしい。ことに自分の行為が他人の運命に交
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