心の静かさと、潤いと、慈しみとを保ちうるであろう。私自らの資性にとってそれが容易であり、成績においてもあるいは実り多いかもしれないのである。しかしながら、私はもう退くことはできない。なぜなら私の一生の歩みにおいて、私はもはや、自己の外の世界を見、遠心的の課題と取組むべき時期に達した。それは私にとって好ましくなくても、私の人間としての義務なのである。
 まことに集中の手紙にある久保謙君の処女習作「朝」の中の「乳母車にのせられた嬰児」が今はこごしく障害と汚染にみちた社会的現実に立向かい、闘《たたか》いつつあるのである。
 それは必ず社会への浄《きよ》めと高めの作用を、その分に応じては持つに相違ない。そして何よりも重要なことは私の人間的義務が、人間的完成が遂げられつつあるのである。
 この集中の手紙のムードは全体からいっていささか女性的である。それは失恋と、肺患と、退学とを同時に課せられた若きたましいが、自ら支えるための消極的抵抗であったといいうる。
 濡れ、輝き、愛と感傷とに至純であるところの、相触るるすべてのものに「よき意志」を用意しているところの、神学的人間を読者は感じ取ってもらいたいのである。
 このように女性的なスタイルの文章を書いていた私は今、刺すがごとき、搏《う》つがごとき攻撃的のポーズで書くようになった。しかし私にとっては、マリアのように優しいことも、サボナローラのように裂帛的《れっぱくてき》であることも、ひとしくこれ神学的態度のあらわれなのである。そしていずれにせよ、私はいかなる場合にも、彼の「よきサマリヤ人」のよき意志を共存者に対して失うことを自らに許さぬであろう。その点においては、集中の一つの手紙にあるように、「人生を呪いますまい。みんなみんな幸福に暮らして下さい」これが私の真意である、たとい今となっては、そのように感傷的な表現を好まぬとはいえ。なお手紙の見出しは出版社の促しに由るものである。
 一九三八年一一月一七日
[#地から2字上げ]倉田百三
[#改丁]

 大正三年(一九一四)


   退学直後

 あなたはどんな正月をしましたか。私には色も香もない正月が訪れました。東京から下って来た妹と語る言葉さえ少なく、静粛な平和な初春を迎えました。六日の一夜風の寒い神戸駅から淋《さび》しそうにして妹が立ってからはまた急に淋しくなりました。しかし私は淋しさにはなれてるから、もうその翌朝には、机の上でコトコトと薬の世話をしたり、マントを着て病院へ通ったりしました。病院は松林に囲まれて小高い丘の上の清楚《せいそ》な白塗りの建物です。そこから海岸まで緩《ゆる》やかな傾斜になっていて両側の松林では淡日がさして小鳥などよく啼《な》いています。私は杖を曳いて鳥打ちをかぶってそこを往復します。私はまったくひとりの自分を嬉《うれ》しみ静かな確実な生活をしています。病気はずっとよろしいから悦《よろこ》んで下さい。
 学校では相変わらずでしょうね。正夫君はどうしていますか。私にもこの頃は静かな気持ちというものがわかるようになりました。
 それから正月号は何日|頃《ごろ》できるでしょうか。できましたら私に五冊ほど送って下さいませんか。それからまことに恐れ入りますが、一冊を小石川日本女子大学校松柏寮内倉田艶子に送って下さいませんか。なにとぞお願いいたします。私は二、三年山ごもりしてからだを養わなければなりません。君らが学士になられるまで、やっと一年の課程を終えたままで、就学できないのはずいぶん淋しいには淋しいが、それくらいなことで屈托してはいけないゆえ、私はしんぼういたします。
 あなたの健康について祈る。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 大正三年一月十一日。須磨より)

   孤独の部屋

 私は二、三日前からここで暮らしています。ここは備後《びんご》の南端にある、小さな港です。私は深い淵《ふち》のように湛《たた》えた海にのぞんだ、西洋風の部屋を約束しました。この部屋から見ると静かな湾は湖のように思われます。向こうの方に眠るがごとく薄々と横たわった山脈の空は、透き通るように青くて、遠いかなしい景色です。
 私はひとりも話す友がない。たいてい書物を読んだり、手紙を書いたり、ひとりで浜に歩きに行ったりして暮らしています。長らくこうして暮らしてると、実に淋しいものですね。二、三日すれば姉が、船に乗って私を見舞いに来てくれます。それを楽しみにしています。あなたはどうして暮らしていますか。私のからだはおいおい快いばかりですから安心して下さい。私はここに当分います。私は部屋の壁に、行李に入れて持って来たキリストの額を掲げました。そして淡青い窓掛の下で中世の宗教的なクラシックを好んで読んでいます。正夫君によろしくいって下さい。学校にはかわりありませ
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