渉するときに、これまで私のしたいろいろなことを考えてみるときに私は人間のイグノランスを痛切に感じて恐怖します。ああ私は自ら知らずして他人を傷つけていました。私は宗教がこの現われたる世界をよしと見ないのに賛成いたします。そしてその最大なる欠点は生命が他の生命を犯さないでは、存在できないことであると思います。これ神のあたえたまいし厳粛な罰ではありますまいか。私はキリスト教の宿罪の思想に非常に興味を感じます。私らの生まれながらの罪を救済するための罪なきものの贖罪《しょくざい》としての十字架が、真に愛のシンボルであるとも思います。与えるばかりの愛の、これほど大きな計画はないと思います。聖書は戯曲としても最大の問題を取扱ってるかと思います。それが空想であるか、実在であるかを決めるのは私らの放擲《ほうてき》、憑依《ひょうい》、転換――内面から迫られた一種の冒険でなければならないかと思います。ファンタジーとレアリテートの間に私は主観的ならぬ区別はないかと思います。私はルナンのヤソ伝を読んでいます。そしてキリストは大なる空想家であったといってるのに注意しました。近代の青年はあまりに空想が小さい。
 なにしろ私は、宗教的気分の醗酵のなかに暮らしています。そして不幸な地位に忍耐して勉強しています。夜は実に淋しくなります。蘆《あし》が生えた池州や舟の乗り捨てられたすがた、湿潤な雲の流れる空、私はなつかしい燈火の下でアウグスチヌスのいう Liebe ohne Leidenschaft というようなものを感じつつひとり書物を読みます。私は教会へ行くほかはいっさい町へ出ません。
 病気はだんだんいいほうですから悦んで下さい。九月にはどうか東京の方へ出たいものだと思っています。気候が悪いからからだを大切になさい、あなたについていのります。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 七月六日。庄原より)

   手術

 あなたに御無沙汰していた間、私はまた不幸にとらえられていました。私は九月の上旬から穴痔《あなじ》という性質のよくない病気に苦しめられて、今日もなお苦しんでいます。その間二度手術を受けました。二度目のはこの病院で、全身麻痺の恐るべき手術でした。私は今もなおあの手術の時真裸かで、手術台の上に寝かされて、コロロホルムを嗅がされて意識を失う時の、恐るべき嫌悪《けんお》すべき心持を忘れることができません。手術後で今日は五十日目なのに、まだなかなか癒えそうにありません。毎日痛い目を忍んで生きています。歩行すると出血するので散歩もできません。
 しかし謙さん、私はこのような生活をしていますけれど人生を呪う気にはどだいなれません。それに反して人生がある全一な、積極的な幸福なものでなければならないとの根本信念が私の心の底に日に日に育ってゆくのです。私は信心深くなります。私はこのような病身なのですから、一生涯《いっしょうがい》ほとんど病院暮らしをせねばならぬかもしれません。また私の生涯は長いものではありますまい。それにしても私は私にゆるされた生をたのしんで感謝して暮らしたいと思います。私は病院のなかでもできるような、不幸な人々のためになるような、仕事を発見したいと念じております。私はこの数年、霊の上に、肉の上に、さまざまな苦痛を受けました。そして、真に他人を愛することを知りました。異常な忍耐力と隣人の愛とが私の心に植えられた。これ私の限りなき感謝です。謙さん、どうぞいつまでも私を愛して下さい。私のことを思い出して下さい。私はただひとりはなれて、私の生活を宝石のごとく育て、かつ祈り、かつ考えて生きております。神もし、私に何らかの使命を与え給うならば、私も立って君らとともにはたらく時もありましょう。どうぞ待って下さい。なにとぞ幸福に暮らして下さい。
[#地から2字上げ](久保謙氏宛 十二月二十二日。広島病院より)
[#改ページ]

 大正四年(一九一五)


   生を呪わぬ心

 あなたへお手紙をあげようと毎日思って、まだ得書かないうちに私はまた不幸に訪れられました。私は明後日また第三度目の手術を受けなければならないことになりました。肉体的苦痛に対する不安と恐怖との人並以上に強い私は、今それに抵抗するために、精神を緊張させねばなりません。なにとぞこの手紙の、あなたの心にみつるほどに、長くこまやかでないのをゆるして下さい。この前の手術後、七十二日間日々耐え忍んだ苦痛はまたむなしくなりました。私はまた新しき忍耐を要求せられました。私の苦痛は私がしのび受けることによって、完結するとしても、私の父母に与えるなげきをいかがしましょう。私は実に両親の不断のトラブルです。ああ私は夜暗い、冷たい教会の板の間に伏してどんなに両親のために祈ったでしょう。
 謙さん、あなたの先日のお手紙は
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