私をたいへん強めまた温めてくれました。私は運命を忍受して何もかも耐えしのびます。私には愛と運命とに対する微妙な心持ちが生じてきました。そして私はますます人生に対して積極的になります。
 私は人生を呪うことができません。これ私の最深の恵みです。どうぞ私のために祈って下さい。
 私はあなたのアリストクラチックな高雅順良なひととなりを、心から懐かしく思っています。どうぞふしあわせな私を忘れずに祈って下さい。私はあなたや正夫君らと一緒に仕事をする時が来るような気がしてなりません。私は父が私に与えてくれる財産を全部投じて、私らの生の歩みのために、そしてそれによって他人を潤おすために雑誌でも出そうかと思っております。そんなふうな仕事ででもなくては私のような病身なものの他人のために貢献する道はありません。
 けれどもそれも神のみ心でないならばいかになるかわかりません。さきのことはとてもわかりません。
 私はこの二、三年の引き続いての苦難によってたいへん試練されました。そして私の心のなかの虚栄心がどれほど焚き殺されたか知れません。私は運命に甘える心、おのれに媚《こ》びるすべての思想感情をば神前に釘づけるために日々祈っております。
 もはや女は本質的に私をひきません。私の主要問題は愛と運命とです。そして強い深い一種の楽天思想です。人間の悲哀と調和と救済との問題です。
 私は武者小路氏や阿部氏の愛の思想の、まだ十分に醗酵していないのを痛切に感じます。真の愛はもっと実践的な、そして祈祷的な、かなしい濡れたものでなければならないと存じます。むしろ鈴木龍司氏の愛のほうが深く達しているでしょう。
 私はこの数日の間病友と病友との間に生じた争いを調停するために祈り、かつ働きました。そして氷雨《ひさめ》の降る夜を車に乗って奔走もしました。そしてついに平和をもたらすことができました。私の心はどんなにやわらいで、そして感謝したでしょう。
 まことに私の周囲には憐れむべき人々がたくさんおります。それらの病友のなかには私の静かな愛の言葉によって、わずかに慰藉を感じているものもあります。あわれではありませんか。昨夜も私のとなりのとなりの室には十三になる少年で、汽車にはさまれて足をくじき切断された患者が入院しました。その悲鳴はよもすがら私の眠りを破りました。その父親は気が転倒して一時発狂状態にありました。その父親のごとき境遇にあって、愛児の苦痛を目睹《もくと》しつつ、いかにして人生を感謝することができましょうか。しかも人生は美であり、調和であり、感謝であると信ずることのできる宗教的境地――それを私は憧《あこが》れ求めます。死力を尽くして生き切る時に、運命を呼びさまして、真の神のヘルプを受けることができるのでしょう。私はまだまだ絶望してはなりません。
 今日は手術のことが心配で、気をおちつけて手紙を書くことができません。不安と恐怖とたたかわねばなりません。手術後はまた動かれなくなり、当分しみじみと手紙もかかれますまい、またしんぼうせねばなりません。ああいつまでもいつまでも人生を愛して倦《う》みますまい!
 私の妹があなたを訪問するかもしれません。その時はなにとぞ私のことを思い出して話して下さい。今日はこれにて筆をおきます。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一月十六日。広島病院より)

   ドストエフスキーの感化の中にあって、祈りと人間同志の従属感にぬれていたころ

 私は今朝《けさ》最近に私の周囲に起こった事件のために悲しく、淋しくされた心で寝台に仰臥しておぼつかない、カーテンを洩るる光のなかに病むものの悲哀にうちしおれていました。硝酸銀でやかれたので傷が痛みます。耐え忍ぶことの尊さを知った私は、それでも眼を閉じて祈りの心持ちのなかに没しようとつとめました。出来事というのは次のようなことなのでした。私の知合いのフランシスという牧師が、私の見舞いにひとりの看護婦を送ってくれました。その女はクリスチャンで愛らしい単純な信心な女です。私はもはや百日も病院にいますのに、少しも私となつかしき話のできるような看護婦はできませんでした。みな役人らしき冷淡なあつかいをするのです。ひとりとして私に触れ、私の魂のなかの宝石を発見し、私のなかのよき部分に触れてくれる者はありませんでした。ひとりの私にすがってくれる友は肺重くして私の部屋まで来ることはできず、私は少しも歩行できないのです。久保さん、私はだれでも愛し、求めるものには惜しまず与えんと、心のなかに常に和解と愛とを用意しているのになぜ、人は私に温かい交渉をしてくれないのでしょう。私はキリストが昔「われ衢《ちまた》に立ちて笛ふけども人躍らず、歌えども和せず」となげかれた、かなしき心持ちをしのびました。そしてどんなに私に求めに、愛されに、す
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