ました。私はこの頃はあなたたち二人の温かい静かな愛情と理解とに生きています。そしてそれをあたりまえなこととは思われません。どんなに感謝しているか知れません、なにとぞいつまでも愛して下さいまし。
私は、けれど、お絹さんとははかない別れをいたしました。彼女は患家先きに働きに行っていました。そして私は厳重な叔母の家にいるので、女と外で会う機会などつくることはできそうにもありませんでした。もとより彼女は患家を去り私はあえて叔母の心を乱さすならば会えないことはありません。昔の私ならば何の苦もなくそうしたでしょう。けれど私らは交際の初めから「他人を愛しえないならば私らの愛は尊きものではない」と決めました。病人の看護と叔母の心の平和とを犠牲にして別れを惜しむことはよいとは思えませんでした。それで二人はただ二時間ほど患家さきから暇をもらってある旅館であいました。彼女はどんなに泣いたでしょう。そして別府までついて行くといいはりました。そして絶望的な様子をしては「これが一生の別れだ」と幾度も繰り返しました。私は彼女をなだめ心を静かにして人生の悲哀を耐え忍ぶこと、二人の将来は神の聖旨のままに任せ奉ること、もし神のみ心ならばいかに別れても必ず※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]わせ給うこと、私らに最も今大切なることは聖旨を呼び起こす熱き力ある祈祷なることをねんごろに説きました。そしてあまり彼女のなげく時には、どうせどの女をも恋することができないのならば、この女と共棲しようかとも思いました。けれど私は神を畏れました。何の誓もいたしませんでした。二人がどうなるか、何の私たちにわかりましょう? 私たちは神様の領分を侵してはなりません。
けれど私は私の車を送って旅館の灯《ひ》の暗い下に立ちつくしていた彼女のあわれなる顔を忘れることができません。あるいはこれが一生の別れになるのではありますまいか。私たちには未来のことは少しもわかりません。けれど翌日妹とともに広島を出発して下関に向かう汽車のなかで「また会う日まで」の讚美歌を唱った時には、私の心は彼女を抱き、彼女を守り給えと一心に祈っていました。
汽車のなかは案じたる眩暈《めまい》の発作《ほっさ》も起こらず安らかに下関に着きました。その夜は貧しき従姉の家に一泊し、翌朝門司よる筑紫路となり二時間を経て別府に着きました。それから今の宿におちつくまではあわただしい不安な一週間を送りました。私は傷つける心を抱いて春のほしいままな温泉宿にあることは好みませんでした。それで妹にもたのんで別府の町から一里はなれた、鶴見山という残雪を頂いた山のふところにある観海寺温泉に行くことに決めました。霙《みぞれ》の降るある朝私らは一台の車には荷物をのせて山に登りました。野原のようなところや、枯れ樹立《こだち》ばかりの寒そうな林の中などを通りました。そして峻しい坂路は車から下りて歩かなければなりませんでした。それは痔の痛む私にはたいへん困難でした。宿は静かなというよりも寂しい山の中腹に建てられ、遠くにかなしそうな海がひろがり、欄によれば平らかな広い裾野《すその》の緩かなスロープが眺められて、遠いかなしい感じのする景色でした。浴客は少なく浴槽は広くきよらかにて、私の心に適いました。
私はこの地にてはできるかぎり宗教的気分にみちた生活をする気でした。キリストの四十日四十夜の荒野の生活、ヨハネの蝗《いなご》と野蜜とを食うてのヨルダン河辺の生活、などを描いてきましたので。
けれど私にはここにも十字架が待っていました。宿に来てからは妹の健康は異情を呈しました。それは山の上には風寒く北向きにて日あたり悪しくまたあまりに寂寞《せきばく》なるためでした。妹は何となく不幸そうに見えました。そして外は風雨の烈しく樹木の鳴る夜に寒そうな淋しそうな顔をして少しは燈火の美しいところへも行きたいと申しました。妹はついに風邪《かぜ》にかかり発熱しました。そして食事もせずに寝ているところへ知人の医学士が来て、妹の肺は少し怪しいと私にだけひそかに注意しました。そして山の乾いた冷たい空気はいけないからさっそく下山するように勧告しました。私は広島駅で妹を迎えた時からそのやせたのに気がつきました。そして食事のすすまぬのを心配していました。私は妹がもし肺病になればと想像して戦慄《せんりつ》しました。そして私は病人ではなくて妹のほうが病人のように思われました。私は自分の生活のために、弱いまだ花やかなものを慕うにふさわしき乙女を、冷たい、淋しい山の上に連れて来たわがままを後悔しました。そして私の趣味を捨てて妹の健康を救おうと決心しました。妹は可憐にも私のために山の淋しさも寒さも燈火のなつかしさも犠牲にする気で少しも不平はいわぬのみか、かえってあなたが好きなら山におろうと
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