いいました。けれどその翌日兄妹は山から下りて再び街に来ました。そして今の宿に来たのです。今の宿は海に近く日あたりよく、かなり静かにて居心地よく穏やかな養生の場所として不適当ではありません。夜は温泉宿の燈火が美しく、三味線をひいて街を流して歩く女なども多く、昨夜も海岸を散歩してみましたら甘やかすような春の月のおぼろな光のなかを男と女と戯れながら歩いてるのを幾組も見受けました。
私は退院以来私自身も、妹も驚くほど元気よろしくかえって妹のほうが案じられるくらいです。妹もこれといって悪いのではありません。休学させて養生させます、なにとぞ心配しないで下さい。私は私のためにも、妹のためにも神の癒やしを祈っています。私らは静かな寂しいそしてたのしい生活をするつもりです。私は私のそばに愛し慈《いつく》しむものの共にあることを悦びます。私は孤独を願いません。私の心はただひとり私が住むときには犬でも飼いたき心地となって表われます。私は時々夜半などにふと眼のさめたとき、かたわらの寝床に妹が黒髪を枕に垂れてすやすやと眠ってるのを見て幸福を感じることがあります。そのようなときに、ひそかにそしてかろく眠りをさまさぬようにその白い手に接吻したい心地がいたします。ああどうして近頃の青年には、弱い美しい清らかなものを慈しみ愛する心が乏しいのでしょうか? 「青と白」の終わりには森のなかで桃色のパラソルを持った少女と大学生と恋を語っているのを見て、それを祝し自らは淋しい樹影にかくれて、静かな魂の休息の深いなぐさめを感ずる青年が描かれてありましたが、それを私はたいへん心地よく感じました。けれどその大学生が幼い少女の愛をもてあそび、そしてブルータルな要求にその清らかな心を蹂躙《じゅうりん》したらどうでしょう。私は恐ろしくてなりません。そしてそのような場景を考えねばならないことを、不安にも、苦痛にも感じます。そのようなことを現実として見なければならないことは人生の一つの大きなイーブルではありませんか。「青と白」とのヒーローは詩人的な純潔な音楽的な気品を備え、成長しました。私はツルゲーネフのゼントルフォークのなかにでてくる純潔な青年詩人を思い出しました。その青年は貧しくて破れた服を着ていたけれど、ひるまず天来の快活をもって理想を説き、盛んに議論し自らを空の雲雀《ひばり》や野の百合《ゆり》と比べました。世に芸術家ほど純潔であらねばならないものがありましょうか? 魂をはずかしむるものは詩人ではありませんと思います。私は「青と白」のヒーローの歩み方を祝し、その前途を期待し、そこに善良な、博大な、そして愛も、欲求も、知能も、音楽的に精化された諧和ある人間を待ち設ける心地がいたしました。私はこの一週のあわただしきなかにも暇さえあれば、「青と白」を読み、そして終りまで読んでしまいました。そして少なからず感心しました。
この真のリファインメントのある作品を早く出版して、荒々しい今の読書界に提供したいものだと思いました。澄子を送る別れのあたりの描写などは、実に貴族的にデリケートな芸術的天分が現われていました。一体が音楽的な感じを与えました。そしてその背後に人心の深き自由なる「善」の意識が常に伴のうていたのは限りなく悦ばしく感じました。私は表現の技巧についてはあなたたちの前には何も申上げる柄ではありません。ただ読み終わって善良な高尚な印象を残されたことを感謝します。
しかし「青と白」の少年は自らの事を語るのに少しく優越の感じを持ち過ぎたように感ぜられるところもありました。もとより自由な純な心持ちでならば誇ることさえも善良に聞かれるものですけれど、どこともなしにアイテルな感じのするところが少しはありました。けれどそれは正夫さんには意識的でなくてシャインバールなものと存じます。私は私の生い立ちと「青と白」の少年の生い立ちとも比較して考えてみました。そして私などは世間的な意味で幸福な、そしてしたがってフリーヴォラスな少年時代を送りました。私は淋しい深いそしてロマンチックな空想的な詩人らしい「青と白」の主人公の少年時代を尊く優れたものと思いました。けれどこの少年は物を掘りうがち動かしゆるがす力が足りないようにも感ぜられました。
「青と白」ほどのものを書きうる人は今の日本の文壇にはちょっとないと思います。フランシスの翻訳などとともに早く出版の運びにしたいものと思います。正夫さんの絵は兄妹の仮住居の部屋を飾るために、しばらく持たせていただきます。この春には絵を描きなさるそうですがぜひ私にも見せてほしいと思います。謙さんが今度書かれるという長篇のできあがるのを子供の出産を待つような心でうれしく待っています。私はこうして友もなく学校もなく劇場も展覧会もなき地に病気ばかりしていますけれど、神様は何か私
前へ
次へ
全66ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング