た時私は泣きました。でも考えてみて下さい、何もかも悲しいではありませんか。窓の外は嵐でした。そして青い遠い空には星がふるえていました。私はこの頃しみじみと星が親しくなつかしくなりました。今夜も天の甘美と遠い調和と魂の休息とが思われて、そこはかとなき永遠へのゼーンズフトを感ぜずにはいられませんでした。そして「ああ病気は癒らなくてもいい」と思いました。そして手を合わせて祈りました。
 なにとぞいつまでも私を愛して下さいまし。私はあなたの過去についてほんの少ししか知りませんけれど、あなたは孤独な淋しい少年時代を送った人のような気がしてなりません。そして今あなたの住んでる家庭はあまり温かな住み心地よきものではないのですねえ。なにとぞ悲哀に耐えて他人を愛して生きて下さい。あなたの芸術的天稟と盛んな、謙遜《けんそん》な、研究心と深い微細な感情とはあなたを大きな器にするに相違ありません。私はあなたは大学を出る頃にはすでにひとかどの学者になるだろうと思われて非常にプロミッシングな期待を置いています。私はあなたの未来に祝福を送ります。
 小さな乾いた青い花の封じ込まれたお手紙は懐しく読みました。そのようなことをなさるのもあなたには似合わしく感ぜられます。荒々しい私の他の友だちには、そのようなことのふさわしきものはほとんどありません。じっさい私はあまりにワイルドな人々の間にのみ住み過ぎましたように思われます。私はあなたのやさしき性格をめでました。そしてあなたの少年時代についてもっと知りたき心を誘われました。ハインリッヒの青い花の夢物語や聖母崇拝の祈りの歌やみな私の胸になつかしき響きを伝えました。私はファウストのなかのグレートヘンがマリヤの石像の前にひざまずいて「マリヤ様、わたしはどんなにひとの罪を責めることの厳しかったことでしょう」などと悔い祈るシーンを思い浮かべつつあなたのお手紙を読みました。あなたは忙しいのによくもたびたびお手紙を下さいます。いつも恵みのごとく悦んで読みます。私は明日いまいちど診察を受けて今後の養生の方針を定める気です。なにとぞ不幸なる私のために祈って下さい。私には人生に絶望することは宗教的の罪悪です。私は不幸のなかにいかにして人生を祝福すべきかを学ばねばなりません。
 私はとても学校生活の堪えらるるほどの健康にはなれそうに思われません。学者にも芸術家にもなれそうに思われません。私はもし神様のみ心ならば魂のことにつきて人に語る説教師になりたいと思います。愛することや、赦すことや、忍ぶことや、祈ることについて私の同胞に語りたい。そしてその材料を学問からでなく人生のさまざまな悲哀や、不調和や、神との交通やすべて実験から得たい。そして私の魂をできるだけ深く純に強く博《ひろ》くすることによって直接に他人に影響したい。じっさい世の中の人はどれほど自分で自分の魂をはずかしめているかしれませんと思います。キリストは「罪の価は死なり」といいました。たとえば面をつつんだ皇后は少しの侮辱にも得堪えぬように魂は少しの罪にも死するほどデリケートな純潔なものなのではありますまいか。近代人の最大の欠点は罪の感じの鈍くなったことだと思います。中世の人はもっと上品であったように見えます。私はモンナ・バンナが夫に貞節を証するために、「私の眸《ひとみ》を見て下さい」というのを実に純潔な表現と思いました。私は私の眸を涼しく保ちたい。憤怒や貪婪《どんらん》や、淫欲に濁らせたくありません。そしてそのためには祈りの心持ちを失いたくありません。ショーは「人間は試練の刹那《せつな》に使命を知る」と申しました。私はこの幾年のライデンは試練というにはあまりに小さかったとも思いますけれど、私の最善の仕事は、哲学者でも、芸術家でもなく説教師ではあるまいかと思うのです。私は神様にもっともっと親しく交わらねばなりません。そしてたえず、祈りまた祈りして聖旨を待ちましょう。私は神様の導きを信じます。あなたはいかに思って下さいますか。
 それからお絹さんのことを少し書きます。彼女は私に熱く恋しました。そして私を悩ましました。それは彼女が思い乱れて仕事は怠り(彼女は働かねば食えない境遇です)食事、睡眠は乱れ、他人との交渉を不義理にしだしたからです。私の最も怖れたとおりになりました。私は恋を重しと見ない心の境地に達してる淋しい人間です。私は宗教的空気のなかに彼女を包んで愛しました。そして他人を愛する心の妨げられるような愛し方で私を愛されることはいやだと申しました。そして仕事の大切なこと、心の安静の貴重なことを諭《さと》しました。しかるに彼女は私に結婚を申し込みました。私は肺のことも考えねばならず、収入のこと、使命のことなど考えればとても決断できるわけはありません。いろいろと煩悶《はんもん》した末
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