淡だと思って心が咎められ、読めば苦しいのです。何もかも私の心には適いませんから。そして同胞を救う力がないことをまざまざと感じさせられますから。私はどうも周囲の出来ごとに心を乱されずに生活することはできません。そして周囲が幸福でなくては私も幸福になれません。私はしみじみとミットレーベンということを感じゴッホのコラボレーションを思います。そして私の天稟《てんびん》のなかに何らかのよきものがありますならばそれを他人に与えるような生活がしたいと思います。
 私は長らく病院にいてそして歩むこともできませんけれど、生活内容には不自由いたしません。私には天も星も樹木も草花も鳥もまた何よりも人間の群れが私の周囲にあります。幾多の問題を含んで私に臨みます。私が十分まじめでありますならば、私は生活の材料を失いはしません。私は退屈などは申したくございません。久保さん、私はあなたに悦んでもらうことには私はだんだん愛の人となるようです。時々は愛の強い衝動を感じます。この間も窓によって空にきらめく星屑《ほしくず》と満潮した川面のふくらみと岸べの静かな森とを眺めた時、私は調和と愛との深い感動を抑えることができず、ああ愛したい、許したい、と涙をこぼして神に祈りました。
 私の健康はまだたびたび長い手紙を書くに適しません。たよりが遅くなってすみません。私は二、三日中に謙さんにいい長い手紙を書きます気です。謙さんにお会いになったら許してもらって下さい。謙さんの家で私の妹に会われたら、友人になってやって下さい。そして絵など見せてやって下さい。
 今日はこれで筆をおかしてもらいます。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 二月十二日。広島県病院より)

   三度の手術もむなしく、病院を去った長き忍耐の日

 私は筆を持つとじきにあなたに訴えたき気持ちになるのです。私は今外科部長と話して別れたばかりです。そしてその話はどんなに心細いものでしたろう。実は私の傷は一週間前までは非常に良経過にて、この様子ならば近日中退院して温泉へ行けと部長も言っていたのです。それで私も東京の妹や故郷の両親にもその旨を通知しました。ところが一昨日頃から傷の模様は急変しました。そしてまたもやフィステルになりました。
「部長さん、切るべきものなら切って下さい」
 私は四度目の手術とその後の永き忍耐をいとわぬ覚悟で問いました。
「そうだね、切るのはいいが、切ってもまたフィステルになるかもしれない、よくそうなりがちなものだからな、それよりこのまま退院して温泉へでも行きからだの保養したほうがいいかもしれない、ルンゲのほうが大切だからね」
「すると痔はどうなりますか」
「痔はだんだん悪くなるね、どうしても。悪くなってからまた入院するのさ」
 部長は憐れなるものを見る眼つきで私の衰えたからだを眺めました。(じっさい私は三度の手術と運動不足と毎日の苦痛のために著しく衰弱しました)そして気の毒そうな様子をして出て行きました。ほとんど半年の永い永い忍耐はむなしくなってしまいました。そして何の収穫もなくして病院を去るのでしょうか、しかもまた手術しに帰らねばならぬと知って肺を養うために温泉に行くのでしょうか? 今朝私は父と艶子から喜びにみちた手紙を受け取りました。そしてこの悲しき事実を返書にしたためねばなりません。あわれなる父(あなたは二年前この父を東京の下宿の門口で見ました)はどんなに悲しむでしょう。私はひとり蒲団にすがって悲しみに溺れていました。するとお松という十六になる田舎娘《いなかむすめ》が私の室にはいって来ました。私は一と眼見てすぐに彼女の心を知りました。また叱られはずかしめられて私に訴えに来たのです。
「おいどうした、どうした」
 と、私は近づきながらたずねました。すると塀《へい》に顔をつけて身ぶるいして泣くのです。その時私の付添婆が帰って来てその事情を話しました。お松は湯たんぽを落として足の指をひどく負傷しました。そして看護婦にたのんで繃帯してもらったのを主人のお嬢さんが無慈悲に叱りののしり、そして金を惜しんで診察も受けずに癒《なお》るものかなどと言って辱かしめたのです。貧しき彼女は診察の金もないのです。
「わたしは、わたしは……いくらお嬢さんでも……」
 などとすすり泣くばかりでものもいえないほどでした。私はふるえる赤い髪と足の繃帯と、小さなあげ[#「あげ」に傍点]のある肩を見た時思わず彼女を抱きました。
「あした、医者に見ておもらい、金は私が持ってる、いけないね、実にいけないね」
 私は腹が立ちました。そして付添婆がお松をなだめて連れて出た時私はお嬢さん(聖書の講義をしている娘)を叱りに行こうとして、かえって悪いと思って室《へや》にとどまりました。そして私の興奮を抑えることができなくて窓にすがりまし
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