。そしてはっきりした態度に出ないので天香さんははがゆがっていられます。私たちは、詩として心に思い浮かべてみたときには完全なように感ぜられても、さて実行しようとすると、すぐに欠点が目に見えて来ます。その点からいっても、ものの真実に触れるためには実行意識にならねばならぬと思います。紅茶を飲みながらのフランシスのうわさが容易なのは、私たちが紅茶を断念せずにできるからであって、さてフランシスの後を実践しようとすれば、前には何でもなかった紅茶について考えてみねばならなくなります。
書物を読みながら本はつまらないといっていても、書物を断念しようとすればなかなかできはしません。「一燈園にはいって書物にだって……」とすぐ思います。私たちの物質欲はよほど根の深い力を備えています。私たちが物質欲のなかにいて、物質欲をなみすることは容易です。それには力はいりません。しかし物質欲をはなれようとする意志を起こすときには、その根の深い力と争うて打ち克つだけの魂の実力がいります。そしてその実力はもう詩でも観照でも表現でもない。ひとつの意志です。形式からいえば、食欲や性欲のような実質的な、最も詩と遠い意志です。天香さんが私たちに欠乏しているといわれるのはかかる力のことなのであろうと思います。
キリストや釈迦はかかる力にみちたる天才だったのでしょう。四十日食わずに野にいることは、それ自身宗教の本質とは縁遠いようでも、実際は宗教の本質はかかる力の上でなくては栄えないであろうと思います。ああ思えば、私たちはフランシスの伝記など読むにたえる人間ではありません。薄き衣で寒風に立つときの肉体的苦痛などを考えもせずに、フランシスの生活を心に描くのはすまないことと思います。フランシスの伝記を読む時には、この肉体的苦痛はほとんど読者の頭にないけれど、もし私たちがフランシスをナハフォルゲンすれば、ほとんどこの苦痛だけが意識をみたすでしょう。寒風に凍えつつ私たちは、この苦痛に堪える力だけが自分の宗教生活の全部だとさえも思うでしょう。私たちに力の問題があまり生じないのは、実行的精神の欠けている証拠と思います。天香さんはその隙間を衝《つ》かれたのであろうと思います。
私はこの頃は自分に勇猛心のないことを感じだしました。自分の宗教的情操は、いまだ気分の域を出でず、自己に甘える、アイテルな部分が、おもな部分を占めているように思います。自分ながら自分の興奮のすき[#「すき」に傍点]が見えてその結果は興奮しないことになります。私はつくづく自分の器量不相応な大げさな感情の高潮のアイテルなことを知りました。力を伴のうた感情だけ起こしたくなりました。これは天香さんにしじゅう接触しているためなのでしょう。
たとえば、
「妹にこれから経済問題にぶっつからせてやろうと思います」などと自分でも悲壮な気持ちになって天香さんに話します。すると具体的な実行の話になります。すると天香さんは「それではぶつからすのではなくて、そっと触れさすのですね」といわれます。そして私は、前に起こした自分の悲壮的な感情などをアイテルに思いつつ帰ります。
そんな目にたびたび出あったので、私はつくづく自分の感情の分不相応なことを知るようになりました。そして自分の器量、実力を省みます。実行的精神を伴なわない興奮は私たちを軽くし、表現の威力を減ずるばかりですね。このようなことをいうのは失礼ですけれど、妹がいつしか「正夫さんのお手紙を読んでいると、私は軽く受け流すような気持ちになります。そのなかに不幸なこと悲しいことが書かれてあっても、そんなに心配する責任を感じなくてもよいような気がします」
と私に話したことがあります。これなどもいろいろな原因もありましょうが、正夫さんが大切な文字を軽く使うからだと思います。実力の上に建てられた表現ならば必ず威力を持つはずと思います。
とにかく私たちは、願いのなかに実が足りませんね。いいかえれば、願いがまだ祈りになっていませんね。祈りの気持ちは実行的精神の最深なるものと思います。私はこの頃何だか力抜けがしたような気がして空虚でたまりません。もっと確かな歩みをしたい。それにはやはり感情のなかからアフェクションを取り去るのが第一と思います。そうすると寂しく孔雀《くじゃく》の羽根をむしったように、自分の姿が惨《みじ》めに見えるでしょう。けれど私たちの本体はそれだけにすぎないと思います。それから実体のある感情を起こして成長して行きたいと思います。でなくては私はもはや行きづまりました。進みにくくて困ります。私たちのアイテルさは、私たちの感情のなかに本丸を据えています。
私は天香さんに衝かれてから、この頃自分の浮足なことが目に見えて仕方がなくなりました。私は不幸です。しかし「これからだ」という気もします
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