で、天香さんの次男の、理一郎という十五になる少年を連れてかえって英語を教えています。この少年は色の白い美しい悧溌《りはつ》な子で私を信じてすがります。
 私はふしあわせな人々のためにできるだけ力を分かっています。それらのさまざまな物語りはあなたにお目にかかって話したらば限りなくたくさんに多様にあります。よく私は一燈園で何心なく座敷の襖《ふすま》をあけると、天香さんの前に奥様らしい三十女などの泣きくずれて訴えているところを見受けて、はっと心を打たれることなどございます。私は天香さんのひとりの弟子として信愛されその愛憐の仕事をたすけることを幸福に感じます。
 あなたは日々仕事にいそしみ、御家庭の不調和にもたえて、愛と忍耐とをまなび、そのなかからあなた自身と周囲とをしあわせにする道を拓《ひら》きつつ、努力していらっしゃるのですね。そのなかからあの「小さき花」の訳書などもできたのですから尊いと思います。フランシスのものなどこそローマンスを求める心や、ドキュメントを渉《あさ》る心などで読まれるべきものではなく、己れの日々の生活に愛と忍びとの味を沁み出させんとの実践の気持ちでしかせられなくてはなりませんね。天香さんなどはフランシスのとおりに行なっていられます。たしかに聖者という感じがいたします。天香さんは昔西村家という待合に十何年間も住んでいられました。今の勝淳さんという一燈園のクララともいうべき尼は、昔の西村家の仲居でした。品のいい静かな婦人です。一燈園の二階の婦人の室《へや》には大小をはさんだりっぱな武士の絵姿を軸物にして懸けてあります。これは勝淳さんの祖父の肖像だそうです。私が一燈園にかえってあくる朝は大雪で、林も垣根もま白になりました。私は顔を洗いに庭に出ますと、そこに勝淳さんが、白雪の重たく降るなかに、立ちつくして、天を拝しつつ、指を輪のようにして黙って祈りの姿でいました。私はその気高い、切髪にした四十幾つの女の祈りの姿を忘れることができません。
 また一燈園の仏壇に飾られてある観音の絵像は、西村家の娘なつ子さんの似顔です、なつ子さんは二十四で、四年前になくなりました。私は天香さんの日記「天華香洞の礎」というのを読ませていただき、なつ子さんの死がいかに天香さんへの打撃であったかを知って涙をこぼさせられました。多くの若い娘たちが、天香さんを慕うて来て、なつ子さんのようになくなったそうです。私は深い深いこの聖者の胸の底の悲哀の測りがたきことを感じます。ある時私は問いました。
「あなたに求めに来た人が、あなたを去る時に淋しいでしょうね」と。天香さんはよく問うてくれたというように感動した様子を帯びて答えました。「初めはずいぶん淋しかった。けれど今はそうでもない。別れる時、自らの不徳をわびて、去る人の後ろ姿を手を合わせて拝んで送っておけば、その人が行きつまった時には必ず帰ってくるものです」
 私はそういう深い別れの心持ちがまたとあろうかと思って泣きたくなりました。そして、その心持ちを自己のものとするまでに、この淋しき聖者はどれほど苦しんだことでしょう。
 天香さんをあなたに紹介する日の早く来らんことを祈ります。
 一昨日お絹さんが突然夜更けに私を訪《たず》ねて参りました。広島の牧師に恋慕せられて、奥さんに虐げられ、いたたまらずに書置きを残して逃げてきました。私は西田さんにお目にかかって、お絹さんを托しました。西田さんはいつでも一燈園に置いてあげるとおっしゃいました。お絹さんは京都に二日私と一緒に暮らして、昨日故郷なる丹後の宮津に帰りました。お絹さんは福山での騒動以来よほどつらかったものとみえて、世帯やつれがして、涙もろくなり、泣いてばかりいました。私は心からあわれになりました。そして行く末は、美しくないのはしんぼうして、私の一生の伴侶にしてやろうと思います。色香はなくても私は大切にしてくれるでしょう。
 この頃の私の心は慈しみと悲しみとに濡れています。今日は雨が煙るように降って肌さむく、火鉢に親しみながらぼんやりしていました。あなたのことを思います。軽ろいところを捨てて重たくなり、甘えるのも脱して真実なるものへ深入りして下さい。あなたの成長をいのる。
[#地から2字上げ](久保正夫宛 二月八日。京都岡崎より)

   隣人としての共棲

 私はこの二十日ばかり病気で寝ています。根気がなくて御無沙汰になってすみませんでした。堪忍して下さい。正夫さんの「完全の鏡」は確かに受け取りました。また、長らく拝借していた「朝」と「イミテイション、オブ、クライスト」とを二、三日前に送り出しました。こちらで私のほか、数人読みました。まことにありがとうございました。私はこの頃毎日発熱して食事が進まないので物憂い心地で暮らしております。今日は根気がありませぬか
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