人間と人間との交わりはどうしてこのように虚偽が多いのでしょうね。
私は尾道の叔父からぜひ帰れという手紙に接して尾道に帰ってからずーっと叔父の家にいました。両親は私の一燈園にての生活を非常に心配いたします。そしてこの寒さの増して行く季節を、ことに寒い京都の修道院にて暮すことはどうしても許してくれません。そして冬の間はぜひ暖地で暮らせと申します。まだ荷物はすべて一燈園にあります。私はしいても争いかねてまだきめずにあります。広島の牧師の家にいるお絹さんは私には悲しい、せつない、諦めの手紙をよこしました。そして艶子へは「兄さんの心配を除くためにあきらめるといってやったけれど、私にはどうしてもあきらめられない、私は朝顔日記の深雪《みゆき》や、袖萩のような強い恋をする。その心は兄さんにも告げない、あなただけは知っていてくれ」という手紙をよこします。そのようにしていつまでも結婚せずにいてくれては私もまことにあわれにかつ責任を感じずにはいられません。
しかるに最近に、私は驚くべき音信に接しました。それは「H・Hを君の妻君にすることは可能である、私がほねをおりたい、至急帰郷せよ」という私の同郷の、札幌の農科大学を出た友人からの手紙なのです。三年昔の苦しい、血の出るような思い出が急に心に蘇りました。H・Hはたしかに結婚したはずです。してみれば去られて帰ったのでしょうか。なにしろ私は心が動揺しました。私はH・Hと結婚することが可能であっても、今は考えなければならない真実な問題がたくさんあってけっして軽率なことはする気はありません。三年の間に私の思想は、いうにいわれぬ淋しい無常な気持ちを植えつけられて、魂のあくがれははるかに遠いあなたに向かっています。私は今もH・Hを愛し、彼女の幸福のためにはどのようなことでもしてやる気です。しかし結婚することがどれだけ二人のために幸福かわかりません。また今そんなことをしたらお絹さんはどうしましょう。私はかわいそうです。とはいえもし今私がH・Hに会いでもしたら、どんな心になるかもわかりません。おそらくは衣の袖にすがって千行の涙を垂れて泣くでしょう。私はけっして忘れてはいないのですもの。
それやこれで私の心はちぢに乱れ、尾道にいたたまらずに、船に乗って遠くへ行って考えたいと思ってここまで参りました。雨が降って小さな汽船に揺られて、船に酔い、頭の底はしんしんと痛み、傘がないので衣は濡れ、まっくらなこの漁村に昨夜おそく着きました。
今朝も空は灰色に低く垂れて、船宿の汚ない部屋の欄干にすがって、海のどんよりした色を見ていると、淋しい淋しい気がいたします。何ともいいようのない無常を感じます。私はこの頃は西行や芭蕉などの行脚《あんぎゃ》や托鉢《たくはつ》して歩くような雲水のような心に同感します。
私は西国八十八か所を遍路して歩きたいと思いましたが止められました。天香さんは勝淳さん(一燈園の尼さん、切髪の品のいい四十歳ぐらい、天香さんと、夫婦のようにして暮らしていられます)と一緒に去年の春西国巡礼をせられました。「お遍路さん――」といって路《みち》ばたの茶屋などでも大切にしてくれるそうです。
私はこのようにぶらぶらしていてついにどうするのでしょう。明日はともかく尾道に帰ろうと存じます。そのうえでまた何とか考えをつけましょう。私は考えをまとめたいと思ってここに来たのに、来てみれば冷たいおちつかぬ心地ばかりして、アンイージーで、はやく帰りたくなりました。
艶子はこの冬休暇にお訪ねいたしましたかしら。今日は何だか悲しくて書く気がいたしません。寒いゆえできるだけ大切にして御勉強なさいませ。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 一月十日。倉橋島より)
師と弟子との純情
今日はあなたの「聖フランシスの小さき花」が届きました。装いも、内容も、文体も典雅な美しさと悦《よろこ》びを保ち、私の心にふさわしき、感激を帯びたひびきを伝えました。私はあなたのお仕事が初めて世に公けになったことを祝します。やがてあなたの創作なども公けの宝として人々に別けもたるる日の早かれかしと祈ります。あなたのプレゼントを私ははじめから、あたりまえのこととして待ち設けられるほど、あなたの生活と仕事に親しくなっていることを悦びました。感謝と同慶の心をもてあなたの送り物を受け取ります。
私は先月の末からこの宿にうつりました。青い畑と、静かな林を後ろにして小さな牧場とが二階の欄干から眺められる小じんまりした、感じのいいところです。一燈園から七、八丁ばかり、天香さんは町へ出るたびに、下から倉田さんと声をかけて下さいます。ちょうど通り路にあたるのです。私は二階から首を出して晴れやかな親しい挨拶《あいさつ》を交わします。私は一燈園へ毎朝通ってお経を誦し礼拝した後
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