この不幸な少年が三、四歳の時でした。理一郎さんは純な愛らしい少年です。色の白い丸ぼちゃの活溌な子です。それがまたどうした因縁か私をたいへん好くのです。そして寝床も私のなかにはいって寝ます。幾らかそして私に甘えるようにもいたします。昨夜はいい月夜でした。私は理一郎さんと一緒に散歩しました。畑の間や林のそばを通って街の方へ歩きながら、いろいろ話しました。私はこの少年の感じやすい純な性質によく触れました。そしてこの少年の小さな胸のなかに動く悲哀や疑いや憧憬などを聞き感動させられました。母のことを語る時には特別にセンチメンタルでした。「長浜から来た当分は悲しくて悲しくて泣けてしようがなかった」などともいいました。また「みな私のお父さんを偉い偉いといやはるけど私はお父さんの主義はきらいや」などともいいました。その理由を聞くと西田さんは理一郎さんをも他人をも同じように愛するのだそうです。そしてものを買うのにでもなかなかお金を出してくれない。不自由を忍耐させる。また学校も早くやめさせるつもりなのだそうです。私は西田さんの心持ちをよくわかるように説明してやりましたらうなずいていました。そして少年倶楽部が買いたいけれどお父さんが買ってくれないといいましたから、私は「西田さんはお金は幾らでもあるけれどあなたを贅沢な習慣にしないために買ってくれないのだ。それさえわかってれば私が買ってあげる」といって寺町の本屋まで行って少年倶楽部を買ってやりました。帰り道に博覧会のイルミネーションのそばを通る時、急に曲馬の楽隊の音が始まりました。少年は好奇心を挑発されたと見えて大分見たそうでした。私はこの少年は平常このようなものを少しもお父さんに見せてもらっていないことを知りました。そしてちょうどこの年頃の少年の好奇心の強い時代には苦しいことであろうと推察しました。「今晩は遅いから、みなが心配するから帰ろう、また私が見物に連れて来てあげる」と私がいうと「いいえこんなものとは縁を切ります」といいました。しかし見たそうでした。
私は西田さんの子供の育て方はよいかどうか疑問だと思いました。「そして私のことは習ってはいけない。お父さんのいうとおりにしなさい。しかし今度曲馬を見せてあげるよ」と約束しました。昨夜もこの少年と一緒に寝ました。あわれではありませんか。お絹さんは免職になり今は広島の牧師の家に預けられています。私は彼女をゆくゆくは妻にしてやる気です。彼女を苦しめはしませんから、安心して下さいませ。今日はこれで筆をおきます。どうぞ御大切になさいませ。「朝」と「百合の谷」は今一燈園の人が読んでいます。いつでもお返しいたします。
[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一燈園より)
[#改ページ]
大正五年(一九一六)
離れ島にさまよう
私は今広島の南にあたる瀬戸内海の一小島倉橋島にある倉橋という漁村の淋《さび》しい旅屋の二階でこの手紙を書いています。あなたのお手紙は尾道で読みました。実富君と往復することが妨げられたという報知は、私を失望させました。そしてそのような目にあうときには、人間はだれでもその動機の世にはありがちなものとは知りながら、非常に不愉快になることを免がれがたいものです。私は何だかあなたの傷つけられた心持ちに同情せられて一緒に不愉快に感じます。自分がただ向こうの幸福を祈る心のほかにはないときに、向こうからあたかも愛するものを損う誘惑のごとくに取扱われるときには淋しいものですね。いったいに子を守る母の愛には他の人に対してえてかってなふるまいが多いものですね。H・Hの母はそのようなふうに私を取扱いました。私はその時の傷つけられた心持ちを今に忘れることができません。そして私は実富君の態度にも少しく不満足を感じます。しかしあなたの手紙には少しも怒りの心持ちは現われていませんでしたのをいとしく、また尊く感じました。何事も耐え忍んで平らかな静かな暮らし方をなすって下さい。あなたはいったいに人に誤解されやすい方だと思われます。これはあなたの自由な対人態度が常人の習慣と容れなかったのでしょうか。実は私はあなたのことを多くの人がよくいわないのを知っています。そして注意しておきますが、御木本君のお姉様に与えたあなたの印象はよいものではありませんでした。私はその事を聞いた時には大いにあなたを弁護いたしました。私はあなたを不幸な、淋しい人だとその時思いました。私はあなたを愛していますから、人があなたをよくいわないのは苦痛に感じます。私はあなたに注意しておきますが、あなたが愛せられていると信じていらっしゃる人々のあいだには、ほんとうはあなたを愛しない人が多いかもしれません。信ずる心はいつでもよい心です。私はそれを知りながら、上のようなことを書かなければならないのでした。
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