しずつ味識し身読してゆかせてもらいたいものです。お絹さんのことが解決すればまた便りをいたします。一燈園の様子もだんだんとお知らせいたします。そのような事情で当分あなたにもお目にかかれません。どうぞ大切になさいませ。
神様の恵みのゆたかにあなたを包むようにお祈りいたします。
私はこの頃は何だか悲しい変な心地がして私の力でなく、何らかの力――運命に引きずられて生きてるような心地がいたします。おちつきますまで謙さんに手紙がしみじみと書かれませんので、なにとぞこの手紙の旨を謙さんにお伝え下さいませ。
今日はこれで筆をおきます。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 十二月四日。一燈園より)
聖者の子
御親切なお手紙をありがとうございました。お父さんはもはやお帰国なさいましたか、叔父さんが病篤き由さぞ御心配のこととお察し申します。何やかやであなたの心も不安でおちつかないでしょうね。しかしあなたは怒号せず叫泣せざる静かな悲苦と調和との心をもってそれらの思いのままにならぬ周囲に対して平和を保つように努めていられることと思っておいとしく尊く存じます。なにとぞ静かに大きくふくらむように成長していって下さい。私はあなたのために祈っています。私は一燈園で毎日よく働いて暮らしています。畑の仕事や洗濯《せんたく》や車曳きなどもいたします。昨夜はバケツを携げてお豆腐を買いに十町もある店まで行きました。そのような卑しい僕《しもべ》のようなことも心にうちより溢るるものがある時には悦んでできます。四、五日前には三条の河道屋というそばやに手伝いに行き、粗末な黒木綿の絆纏《はんてん》を着て朝から夜の七時まで働きました。車を廻したりそば粉をこねたりしましたが馴れない力わざなのでぐったり疲れて半里もある一燈園への帰り道に燈火の明るい京女の往き交う二条通りなどを歩む時には私はロシアの都会などを歩く労働者などの気持ちがしのばれました。そしてやはり小説を読んだだけではわからないところの、ただ労働者の眼にのみ展《ひら》ける一種の世界があるような気がいたしました。畑へ出て耕したり、野菜を植えたり、草を刈り、焚火をしたりしていると土に対する親しい感じや農夫に対する同悲の心などがしみじみ起こります。私は畑から担いで帰った葱《ねぎ》やしゃくし菜などを谷川を洗いましたが、その冷たさ、それからは路を歩いても、子をおぶった女などが手を赤くして菜を洗っているのを見ると(これまでは少しも目につかなかったのに)限りなき同悲の情が起こります。私は社会の下層階級の人々の持つ感じ方に注意せられます。そして共に労働するものの間に生まれる愛憐と従属との感じなどを思うときに古えの聖者たちが愛と労働とを結びつけて考えたのは道理のあることと思われます。私は健康さえたしかならば労働者として暮らしたい心地さえいたします。しかし謙さん、私に不安なのは私の健康のことです。一燈園は麦飯と汁のほかは食物はありません。そして労働しなければなりませんし、睡眠もとかく乱れがちになります。私はこれまでの養生法と正反対の生活状態にはいりました。どうも他の質素な人々の目の前で私だけ豊かな暮らし方をするわけにも参りません。私は一昨日も荷車の後押しをして坂を上る時息が苦しくて後で嘔吐を催しました。また立膝をして菜などを洗うので痔のぐあいもよろしくないようです。幸いにして今のところでは無事で暮らさせてもらっています。けれどどうも不安が去りません。天香師は強い信仰から、仏によりて養われるならば粗食でも仏の加護で壮健を保たれるといわれます。また私の二つの病気を知りながら労働することもあまり気にもとめられません。私は慈悲深い西田さんが私の健康をおろそかに取扱って下さるはずはないと信じていますけれど、でもまだ不安は去りません。そしてどこまでも私の理想を妨げる病気が怨めしい心地も起こります。からださえ丈夫ならば、労働は私はたしかに大切な、生活を清新にする尊いものと信じますから喜び勇んでいたしますが、今のところ、まだ少し不安があります。私はこのことに関して神様に特別に祈っております。一燈園は喜捨で生活して行くので、他家ではたらくのは無報酬なのです。二十九人おりますが、みなそれぞれ不幸な運命のもとに生まれた人ばかり、白髪の老人や、切髪の奥様や、宿無し児や若い娘などもおります。私といつも一緒に畑に行く人は気狂いで時々無理をいって私を困らせます。私はこれからおいおいそれらの人々についてあなたにお知らせいたしますつもりですが、今日は天香師の息子さんの理一郎という十四になる少年について少し書きましょう。理一郎さんには母がありません。それは西田さんが出家の生活を初めた時に西田さんを気狂いだと思って西田さんを捨てて行かれました。それは今から十数年前まだ
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