が滲みます。私たちは、地上ではどうせ罪を他人に犯さずにはいられない。赦し合わないならば、どうして交わるよすががありましょう。だから私にあなたはまったく安心して、私のおもわくなど気にせずに交わって下さい。私もそのようにいたしましょう。
庄原をお立ちなさってから、今日までの御様子は、たびたびの詳しいお便りでよくわかりました。宮島の海岸での少女を連れたフランス人の婦人の話や、坂手島の女の水汲みの話や、またことに星かげのうつる夕なぎの海べに、淋しきキリストの悲哀や、あの可憐なお友だちのお妹さんの今は天国にある魂について語りなさったところなどまことになつかしく感動して読みました。この夏休みの四十日の旅があなたに感謝をもって思い出され、前よりも愛とまじわりの心地に和らげられて感ぜられることは実に尊いしあわせなことと思われます。ロバートソンの説教集は私も読んでみましょう。また「母たちと子たち」も早く読む機会を持ちたいと思います。まだお目にはかかりませんけれど、あなたのお母様は私にも愛の誘われるような心地もいたします。
あなたと別れてから、私は急に淋しくなり、沈鬱《ちんうつ》な気分におそわれ、とりとめもないメランコリーに身をまかせてしまいました。私がたよりをしなかったのはそのためでした。赦して下さい。私は手紙もかかず書物も読まず、立ったりすわったり心も落ち付かず、いろいろなことがかなしくかなしくなりました。私は三年前の夏のようになるのではないかと不安になりました。私の運命の拙ないこと過去の生涯の冷たい後悔、人の頼みがたきこと、今の私の弱いからだや心のなかのエゴイズムの嫌悪やまた、将来にも何の温かい花やかな希望もたわむれず、ただ忍耐せねばならない永い永い日がつづいているように思われたりして、私はかなしく、恨めしくなりました。私はこんどでいかに私が自らを意志をもって支持しているのかを知りました。その意志を弛める時私はかなしみに敗けてしまうのです。私はどうしても自分の運命を淋しい、かなしいものに思わずにはいられません。この二十日のあいだ、私はそのように望みのない思いに打ち沈んで、妹や母にも心配をかけました。教会に行っても、いやなところばかり目につくし、私はついに十七日の朝急に、庄原から八里ほど山の奥にある帝釈《たいしゃく》という村に参りました。家がのがれたく、人のいないところで心を整えたかったのです。
けれどそこも乾からびた、倦怠な、貧しい村で、宿につくとすぐに私は帰りたくなりました。けれど私は三日のあいだ神に祈り、心を静め、はげましてその村で心をととのえました。「どこへ行ってもかなしいのだ」私は思いました。「私の運命を抱け、もはや私のかなしみは女を得れば癒されるかなしみではない。人間としてのかなしみで私のかなしみではない。人生の永い悲哀と運命の淋しさである。もう私は私に媚びる甘いものの影に心をひかれまい。運命を直視しよう。そして運命に毀たれない、知恵と力とにあこがれよう」私は山かげの暗い洞穴のなかで、渓川《たにがわ》の音の咽び泣くのを聞きながら、神様に祈りました。「神様、あなたは私を造りなさったとき何かの御計画があったのでしょう。なにとぞ、その計画を私の上に成就せしめ給え。あなたの地上になし給うよき仕事の一部に私をあずからしめ給え」
私は涙がこぼれて洞穴のなかで泣きました。外に出ると驟雨《しゅうう》に洗われた澄み切った空の底に、星が涼しそうに及びがたき希みのように輝いていました。その時私はふと聖者になりたいと思いました。そして奇蹟を行なう力と、挙げられて壇からはなれる徳とがなくては聖者にはなれないとあなたのおっしゃったのを思いました。あのとき私はまた思いました。「私はただ一つのクレアトールとして、造り主と、他のクレアトールとに対する徳を得たい、神に仕え、隣人を愛して、ひとりの力なき忠実な僕《しもべ》として生きよう」
そのようなことを考えて、宿へ帰る間私は幸福でした。そして私にはまだ残された未来と開拓すべき私の領地とがあるような気がして心強くなりました。私は帝釈《たいしゃく》の三日の間にしだいに希《のぞ》みを恢復《かいふく》いたしました。そして帰る日の朝には、宿の川向かいの貧しい家に夏蚕《なつご》を飼っているのを勤労の心地で眺めたり、宿の寡婦の淋しい身上話をしみじみと聞いてやれるほどおちつきを得ました。
そして「帰ったら勉強しよう」と決心して帰途に就きました。
車の上でもいろいろと考えてみました。そして将来の私の仕事についても、もはや二十五にもなり、学校へは行かれないのだし、考えてみねばならぬと思いました。
私は自分の生活をただちに隣人に献げたい、一つの芸術、一つの哲学として提出する才能はなくても、「生」を享《う》けたものは何とかし
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