、人を愛するためには人を離れて、人なつかしいような位置に自分を置くのがよいのではありますまいか。私はトマスの隠遁の生活を愛にかなわぬと思って、つとめて衆群と接触するように努めました。けれども、それは私ごときの愛の素質の乏しきものには、人間ぎらいの心を起こさせ、また自ら誘われ、人を惑わす結果になりがちなものであることを知りました。人々の群れのなかに住めば責める心、いやだと思う心が、はるかに多く私の胸を占領します。また自ら卑しくなる心地がいたします。だいいち、女をナハバーリンとして愛することは私にはよほど困難です。お絹さんなどに対してももとより外にあらわれる行為の表現は言葉も態度も品を失わずにすみますけれど、心に動くエロチッシュの興味を何といたしましょう。しかもこれ神様の眼には免るることのできぬ姦淫《かんいん》です。もし人々の群れを離れて淋しきに住めば、どのような人をも懐しがり、女をもナハバーリンとして、その幸福を祈ってやることができるのではありますまいか。
私は再び隠遁《いんとん》に帰りたくなりました。どれだけの周囲が自分に許さるるかは、その人の器の大小によるのでありますまいか、キリストはサマリヤの娼婦《しょうふ》にもただちに近づいて説教しました。けれどもし、淫欲の心燃ゆる下根の人間が、ただちに女に近づくのが愛の行為でしょうか、私は隠遁の真の心持ちをまだ知りませんでした。自らに与うる力なくして、他人を傷つける心ばかり起こるようでは、衆群にはいるよりも、衆群を避けるほうが愛ではありますまいか。「私のような者があなたたちと接触しては、あなたたちのためになりません」こういって隠遁するのはいけないのでしょうか? まして触れれば触れるだけ相互の魂を汚すばかりであるときには、「さようなら」を告げるのも正しくないとはいわれないかと思われます。私はトマスの隠遁の心持ちが少しはわかったように思われます。私はこの頃は「さようならを告げる心持ちの根拠」について考えています。万人と万物とを随所随時に愛することのできる自由の境地は私たちの最ものぞむところながら、「造られるもの」がかかる境地に行くまでには強い隠遁の欲求――愛と純潔より生ずる――が起こるべきではありますまいか、キリストの四十日四十夜の荒野の生活、モーゼの三年の隠遁、フランシスの洞窟《どうくつ》のソリチュードなどが思われます。私な
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