だけ心得ていればよいのだ。何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。さまざまな迷いを自分でつくり出すからな。しかしまじめでさえあれば、それを見いだす知恵が次第にみがき出されるものだ。
唯円 あなたのおっしゃる事はよくわかりません。しかし私はまじめに生きる気です。
親鸞 うむ。お前には素直な一向《ひとむき》な善《よ》い素質がある。私はお前を愛している。その素質を大切にしなくてはならない。運命にまっすぐに向かえ。知恵は運命だけがみがき出すのだ。今はお前は年のわりに幼いようだけれど、先では大きくなれるよ。
唯円 さっき私は知応《ちおう》殿にしかられましてな。
親鸞 なんと言って。
唯円 私がさびしいのは信心が足りないからだと言うて。仏様の救いを信ずるものは法悦《ほうえつ》がなければならぬ。その法悦は救われている証拠だ。踴躍歓喜《ゆやくかんぎ》の情が胸に満ちていればさびしい事はない。さびしいのは救われていない証拠だとおっしゃいました。
親鸞 ふむ。(考えている)
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両人しばらく沈黙。本堂より、鐘の音読経の合唱かすかに聞こえて来る。
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唯円 お師匠様、あの(顔を赤くする)恋とはどのようなものでございましょうか。
親鸞 (まじめに)苦しいものだよ。
唯円 恋は罪の一つでございましょうか。
親鸞 罪にからまったものだ。この世では罪をつくらずに恋をすることはできないのだ。
唯円 では恋をしてはいけませんね。
親鸞 いけなくてもだれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前にひらけるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯《しょうがい》はきまると言ってもいいくらいだ。
唯円 そのように重大なものですか。
親鸞 二つとない大切な生活材料だ。まじめにこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見る事ができるようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]になる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所のこちらで精力がつきてへとへとになってしまうのだ。
唯円 では恋と信心は一致するものでございましょうか。
親鸞 恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。
唯円 では私は恋をしてもよろしいのですか。
親鸞 (ほほえむ)お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも言わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。
唯円 あなたも恋をなさいましたか。
親鸞 うむ。(間)私が比叡山《ひえいざん》で一生懸命修行しているころであった。慈鎮和尚《じちんかしょう》様の御名代《ごみょうだい》で宮中に参内《さんだい》して天皇の御前で和歌を詠《よ》ませられた。その時の題が恋というのだよ。ところがあまた公家《くげ》たちの歌よみの中で私のがいちばんすぐれているとて天皇のお気に召したのだよ。そして御褒美《ごほうび》をばいただいた。私は恐縮してさがろうとした。すると公家《くげ》の中の一人がかような歌をよむからにはお前は恋をしたのに相違ない。恋をした者でなくてはわからぬ気持ちだ。どうだ恋をした事があるだろうときくのだ。
唯円 あなたはなんとお答えあそばしましたか。
親鸞 そのような覚えはありませんと言った。するとその公家がそのようにうそを言ってもだめだ。出家の身で恋をするとはけしからんと言うのだ。ほかの公家たちがクスクス笑っているのが聞こえた。
唯円 まじめに言ったのではないのですか。
親鸞 からかって笑い草にしたのだよ。私は威厳を傷つけられて御所を退出した。どんなに恥ずかしい気がしたろう。それから比叡山《ひえいざん》に帰る道すがら、私はまじめに考えてみずにはいられなかった。私はほんとうに恋を知らないのであろうか。私はそうとは言えなかった。ではなぜ恋をしましたと言えなかったのか? なぜうそをついたのか。出家は恋をしてはいけない事になっているからだ。私はいやな気がした。私は自分らの生活の虚偽を今さらのように憎悪した。そして山上の修行が一つの型になっているのがたまらなく偽善のように感じられた。その時から私は山を下る気を起こしだした。もっとうそをつかずに暮らす方《ほう》はないか。恋をしても救われる道はないかと考えずにはいられなかった。
唯円 およそ悪の中でも偽善ほど悪いものは無いのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。
親鸞 そのとおりだ。百の悪業《あくごう》に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。悪人のための救いなのだからな。
唯円 善《よ》いものでなくては助からぬという聖道《しょうどう》の教えとはなんという相違でございましょう。
親鸞 他人はともあれ、私のようなものはそれでは助かる見込みはつかないのだ。私は今でも忘れ得ぬが、六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出会ってね。寒空《さむぞら》に月が凍りつくように光っている夜だったよ。私を山へ連れて登ってくれというのだ。私は比叡山《ひえいざん》は女人禁制《にょにんきんぜい》で女は連れて登るわけに行かないと断わったのだ。すると私の衣の袖《そで》にすがって泣くのだ。私も修行して助けられたいからぜひ山へ連れて行って出家にしてくれと一生懸命に哀願するのだ。いくら言っても聞き入れないのだ。はては女は助からなくてもよいのですかと恨むのだ。私は実に困った。山の上では女は罪深くして三世の諸仏も見捨てたもうということになっているのだ。しかたがないから私はそのとおりを言ってあきらめさせようとした。すると女は見る見るまっさおな顔をした。やがて胸をたたいて仏を呪《のろ》う言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。
唯円 まあかわいそうな事をなさいましたね。
親鸞 でも山の上へは連れて行けなかったのだ。あらしで森ははげしく鳴っている。私は女の呪いが胸の底にこたえて夢中で山の上まで帰った。その夜はまんじり[#「まんじり」に傍点]ともしなかった。それからというものは私は女も救われなくてはうそだという気が心から去らなくなった。私は毎夜毎夜六角堂に通《かよ》って観音様に祈った。夢中で泣いて祈った。私は死んでもよいと思った。私はそのころからものの見方がだいぶ変わって来だした。山上の生活をきらう心は極度に達した。私は六角堂から帰りによく三条の橋の欄干にもたれて往来の人々をながめた。むつかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。あるいは口笛を吹きながら廓《くるわ》へ通うらしい若者も通った。私はどんなに親しくその人たちをながめたろう。皆許されねばならないような気がした。世の相《すがた》をあるがままに保っておくほうがよいという気がした。「このままで、このままで」と私は心の中に叫んだ。「みんな助かっているのでは無かろうか」と。山へ帰っても、もはや、そこは私の住み家ではない気がした。
唯円 その時|法然聖人《ほうねんしょうにん》にお会いなされたのですね。
親鸞 まったく観音様のおひきあわせだよ。私は法然様の前で泣けて泣けてしかたがなかったよ。
唯円 (涙ぐむ)あなたのお心は私にもよくわかります。
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両人しばらく沈黙。僧一、僧三登場。
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僧一 お師匠様はここにいられましたか。
親鸞 唯円と日向《ひなた》で話していました。
僧三 御気分はいかがでございますか。
親鸞 もうほとんどよいのだよ。ありがとう。
僧一 それはうれしゅうございます。大切にあそばしてください。
親鸞 お前たちもここでお話しなさい。本堂のほうはどうだった。
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唯円、座ぶとんを持ちきたり、両人にすすめ、茶をつぐ。
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僧三 いっぱいの参詣人でございます。お勤めが済みまして、今は知応《ちおう》殿の説教最中でございます。
僧一 知応《ちおう》殿の熱心な説教には皆感動したようでございました。
僧三 権威のある、強い説教でした。皆かしこまって聴聞《ちょうもん》いたしていました。
僧一 きょうの説教はことに上できでございました。
親鸞 やはり法悦《ほうえつ》という題でしたのだな。
僧三 御存じでいらっしゃいますか。
親鸞 知応が私に話した事もあるし、さっき唯円からちょっと聞いた。
僧一 宗教的歓喜というものがいかに富や名誉など、地上の楽よりもすぐれて尊いかを高潮してお話しなされました。
僧三 恋よりも楽しいとさえおっしゃいました。
唯円 死の恐怖もなく孤独のさびしさもなく、浮き世への誘惑も無いとおっしゃいました。
僧一 法悦は救いの証拠であると言われました。
僧三 私たち出家しているものの、特別に恵まれた境遇である事を、あの説教を聞いて私は今さらのごとくに感じました。
唯円 私はあれを聞いて不安な気がいたします。私はこのごろはさびしい気がいつもいたします。ぼんやりしてお経を読んでも心が躍《おど》らない時があります。私は病身で先月も少し熱が高かったので死ぬのではないかとこわくてたまりませんでした。今死んでは惜しくてなりません。私はなんだかあくがれるような、浮き世をなつかしむような気が催して来ます。知応様のように強い証《あかし》を立てる事ができません、法悦が救いの証拠とすれば私は救われていないのでしょうか。私はこのようでも仏様が助けてくださる事だけは疑わないのですけれど……
僧一 からだの弱いせいだろうと私は思います。
僧三 やはり信心が若いからではありますまいか。
唯円 お師匠様、いったいどうなのでございましょう。教えてください。私は不安でたまりません。私は助かっていますか。いませんか。
親鸞 助かっています。心配する事はありません。実は私も唯円と同じ心持ちで暮らしています。病気の時は死を恐れ、煩悩《ぼんのう》には絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜《ゆやくかんぎ》の情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧《ほうえつざんまい》に入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しんでいます。
僧一 (驚きて親鸞を見る)あなたがですか。
親鸞 私はなぜこうなのだろうといつも自分を責めています。よくよく私は業《ごう》が深いのだ。私の老年になってこうなのだから、若い唯円が苦しむのも無理はない。しかし私は決して救いは疑わぬのだ。仏かねて知ろしめして煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡夫《ぼんぶ》と仰せられた。そのいたし方のない罪人の私らをこのまま助けてくださるのだ。
僧三 では知応《ちおう》殿のお考えは間違いでございますか。
親鸞 いや間違いではない。人によって業の深浅があるのだ。法悦の相続できる人は恵まれた人だ。私はそのような人を祝福する。ある人は煩悩が少なく、ある人は煩悩が強くて苦しむのだ。ただ法悦を救いの証《あかし》とするのが浅い。知応にも話そうと思っているがよくお聞きなさい。救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力《じりき》です。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。
唯円 私はありがたい
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