痛に圧倒されそうでした。それからあなたがたを呪う心と戦わねばなりませんでした。私の心は罪と苦しみとに囚《とら》われていたのです。
左衛門 あなたのお話はこれまでの坊様のとはちがいます。あなたは自分を悪人かのようにお話しなされます。
親鸞 私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救い難き悪人です。私の心は同じ仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を食いますもの。悪人でなくてなんでしょうか。
慈円 お師匠様はいつもそのように仰せられます。
お兼 左衛門殿も常々そのように申します。
親鸞 (左衛門に)あなたはよいところに気がついていられます。あなたのお考えはほんとうです。
左衛門 あなたはそれで苦しくはありませんか。私は考えると自暴《やけ》になります。私は善を慕う心がございます。けれど私は悪をつくらずに生きて行く事ができません。またその悪であることを思わずにいる事もできません。これは恐ろしい事だと思います。不合理な気がします。私はしかたがないから悪くなってやれという気が時々いたします。
お兼 左衛門殿は自分を悪に耐える強い人間に鍛えあげるのだと言って、わざとひどい事に自分を練らそうとするのでございますよ。そのくせいつも心は責められているのでございますよ。それで苦しまぐれに自暴《やけ》になって、お酒など飲むのです。だんだん気が荒《すさ》んで行きますので、私もほんとに案じています。
左衛門 どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善《よ》い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。(間)御出家様。教えてください、極楽と地獄とはほんとうにあるものでございましょうか。
親鸞 私はあるものと信じています。私は地獄が無いはずはないという気が先にするのです。私は他人の運命を傷つけた時に、そしてその取り返しがつかない時に、私を鞭《むち》うってください、私を罰してください、と何者かに向かって叫びたい気がするのです。その償いをする方法が見つからないのです。また自分が残酷な事をした時にはこの報いが無くて済むものかという気がするのです。これは私の魂の実感です。
左衛門 私はさっきそのような気がいたしました。もしあなたがたにあやまる機会がなくて、あれぎりになってしまったら、あなたがたがいつまでも呪《のろ》いを解かずに巡礼していらしたなら、私のつくった悪はいつまでも消えずにおごそかに残るにちがいないという気がしました。また私は生きた鶏をつぶす時にいつも感じます。このようなことが報いなくて済むものかと。私はあなたを打ったことを思うと、どうぞ私を打ってくださいといいたい気がします。
親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。私たちが自分は悪かったと悔いている時の心持ちの中にはどこかに地獄ならぬ感じが含まれていないでしょうか。こうしてこんな炉を囲んでしみじみと話している。前には争うたものも今は互いに許し合っている。なんだか涙ぐまれるようなここちがする。どこかに極楽が無ければならぬような気がするではありませんか。
左衛門 私もそのような気もするのです。けれどそのような心持ちはじきに乱されてしまいます。一つの出来事に当たればすぐに変わります。そして私の心の中には依然として、憎みや怒りが勝ちを占めます。そして地獄を証《あかし》するような感情ばかり満ちます。
親鸞 私もそのとおりです。それが人間の心の実相です。人間の心は刺激によって変じます。私たちの心は風の前の木の葉のごとくに散りやすいものです。
左衛門 それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強《し》います。私は善《よ》い人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷つけられました。それでとても渡世のできない事を知りました。死ぬるか乞食《こじき》になるかしなくてはなりません。しかし私は死にともないのです。女房や子供がかわいいのです。またいやなやつの門に哀れみを乞《こ》うて立つのはたまりません。私は悪人になるよりほかに道がありません。けれどそれがまたいやなのです。私の心はいつも責められます。
親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善《よ》くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山《ひえいざん》や奈良《なら》で数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪《のろ》いを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。私は絶望いたしました。私は信じます。人間は善くなり切る事はできません。絶対に他の生命を損じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。
左衛門 あなたのような出家からそのような言葉を聞くのは初めてです。では人は皆悪人ですか。あなたもですか。
親鸞 私は極重悪人です。運命に会えば会うだけ私の悪の根深さがわかります。善の相《すがた》の心の眼《め》にひらけて行くだけ、前には気のつかなかった悪が見えるようになります。
左衛門 あなたは地獄はあるとおっしゃいましたね。
親鸞 あると信じます。
左衛門 (まじめな表情をする)ではあなたは地獄に堕《お》ちなくてはならないのでありませんか。
親鸞 このままなら地獄に堕ちます。それを無理とは思いません。
左衛門 あなたはこわくはないのですか。
親鸞 こわくないどころではありません。私はその恐怖に昼も夜もふるえていました。私は昔から地獄のある事を疑いませんでした。私はまだ童子であったころに友だちと遊んで、よく「目蓮尊者《もくれんそんじゃ》の母親は心が邪険で火の車」という歌をうたいました。私はその歌が恐ろしくてなりませんでした。そのころから私はこの恐怖を持っていたのです。いかにすれば地獄から免れる事ができるか。私は考えもだえました。それは罪をつくらなければよい。善根を積めばよいと教えられました。私はそのとおりをしようと努めました。それからというもの、私は艱難辛苦《かんなんしんく》して修業しました。それはずいぶん苦しみましたよ。雪の降る夜、比叡山《ひえいざん》から、三里半ある六角堂まで百夜も夜参りをして帰り帰りした事もありました。しかし一つの善根を積めば、十の悪業《あくごう》がふえて来ました。ちょうど、賽《さい》の河原《かわら》に、童子が石を積んでも積んでも鬼が来て覆《くつがえ》すようなものでした。私の心の内にはびこる悪は、私に地獄のある事をますます明らかに証《あかし》しました。そして私はその悪からのがれる希望を失いました。私は所詮《しょせん》地獄行きと決定《けつじょう》しました。
左衛門 私はこわくなります。あなたのお話を聞いていると、地獄が無いなどとは思われなくなります。魂の底の鋭い、根深い力が私に迫ってまいります。私は地獄はないかもしれないと、運命に甘えておりました。きょうもせがれに地獄極楽はほんとうにあるのかときかれて私はうそだ、つくり話だと言いましたけれど、自信はありませんでした。地獄だけはあるかもしれないと冗談を言って笑いましたけれどほんとにそうかもしれないという気がして変に不安な気がしました。あなたに会って話していると、私は甘える心を失います。魂の深い知恵が呼びさまされます。そして地獄の恐ろしさが身に迫ります。
お兼 ゆうべの夢の話と言い、私はなんだか気味の悪いここちがするわ。
左衛門 (外をあらしの音が過ぎる)その地獄から免れる道はありませぬか。
親鸞 善《よ》くならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせていただけると信じているのです。それは愛です。赦《ゆる》しです。善、悪をこえて働く力です。この世界はその力でささえられているのです。その力は、善悪の区別より深くてしかも善悪を生むものです。これまでの出家は善行で極楽参りができると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。罪をゆるしてくださいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません。
左衛門 (目を輝かす)殺生《せっしょう》をしても、姦淫《かんいん》をしても。
親鸞 たとい十悪五逆の罪人でも。
良寛 御慈悲に二つはございませぬ。
慈円 他力《たりき》の信心と申して、お師匠様のお開きなされた救いの道でございます。
左衛門 (まっさおな、緊張した顔をして沈黙。やがて異常の感動のために、調子のはずれた、物の言い方をする)私は変な気がします。私は急に不思議な、大きな鐘の声を聞いたような気がします。その声は私の魂の底までさえ渡って響きました。私の長く待っていたものがついに来たような親しい、しっくりとした気持ちがします。私はありがたい気がします。私はすぐにその救いが信じられます。そのはずです。それはうそではありません。ほんとうでなければなりません。私は気がつきました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。ありがたい、泣きたいような気がして来ました。
親鸞 それはほんとうです。私は吉水《よしみず》で法然聖人《ほうねんしょうにん》に会った時、即座にその救いが腹にはいりました。あなたの今の感じのとおりです。さながら忘れていたものを思い出したようでした。まるで単純な事です。だれでもこの自分に近い、平易な真理がわからないのが不思議でした。私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そしてゆるします。他人の悪をゆるします。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪《のろ》います。しかしさまざまの汚れた心の働きの中でも私たちは愛を知っています。そしてゆるします。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものがよみがえって来るのです。そして信仰となるのです。
慈円 あなたは長い間正直に苦しみなさいました。自分の心を直視なさいました。あなたの心の歩みは他力《たりき》の信仰を受け取る充分な用意ができていたのです。
良寛 前のものからあとのものに移る必然性がある時には、たやすいほどな確かさがまるで水の低きに流れるようにして得られるものでございますね。
親鸞 あなたの信心は堅固なものだと存じます。
左衛門 私は今夜はうれしい気がします。この幾年私の心を去っていた平和が返って来たようなここちがいたします。(涙ぐむ)
お兼 ほんとにそうですわ。もうずいぶん長い間あなたが潤うた、和らかな心でいらしたことはありませんわ。
親鸞 あなたは自分を悪に慣らそうとつとめているとおっしゃいましたね。
左衛門 私は生まれつき気が弱くていけないのです。それでは渡世に困るから、もっと悪人にならねばならぬと思ったのでした。
お兼 それで猟を始めたり、鶏をつぶしたり、百姓《ひゃくしょう》とけんかしたりするのでございますよ。
親鸞 私はあなたの心持ちに同情します。しかしそれは無理な事です。あなたは「業《ごう》」ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとう
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