が助けてくださいましょう。あなたの丹精しておまきなされた法の種子《たね》は、すでに至るところによき芽ばえを見せています。仏様のみ名はあなたの死によってますます讃《ほ》められるのでございましょう。
親鸞 仏さまのみ名をほめたてまつれ……(次第に夢幻的になる)わしの心は次第に静かになってゆく。遠い、なつかしい気がする……仏さまが悲引《ひいん》なさるのだ……外は涼しい風が吹いているのだね。
唯円 (ぞっとする)はい。いいえ、あかあかと入陽《いりひ》がさしています。
親鸞 近づいて来るようだ。兆《きざし》が……座敷はきれいに掃除《そうじ》してあるね。
唯円 塵《ちり》一つ落ちてはおりませぬ。
親鸞 わしのからだは清潔《きれい》だね。
勝信 昨日、御沐浴《ごもくよく》あそばされました。
親鸞 弟子《でし》たちを呼んでおくれ。皆呼んでおくれ。わしが暇乞《いとまご》いするために。最後の祝福をあたえてやるために。
勝信 かしこまりました。(立ち上がる)
唯円 (深き動揺を制する。小声で勝信に)お医者様を。
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勝信いそぎ退場。
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唯円 (親鸞の手を握る)お師匠様。お気をたしかにお持ちあそばしませ。
親鸞 (うなずく)お灯明を。仏壇にお灯明を。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。
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      第三場

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舞台、第一場に同じ。夜。淡白《うすじろ》い空に黒い輪郭を画している寺の屋根。その上方に虹《にじ》のような輪をかぶった黄色な月がかかっている。通用門の両側には提灯《ちょうちん》を持った僧二人立ちいる。舞台月光にてほの暗し。
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僧一 あの輪のかかったお月様を御覧なされませ。
僧二 不思議な、色をしていますね。
僧一 黄色くて、そして光芒《こうぼう》が少しもありませんね。
僧二 あゝ、お師匠様もいよいよおかくれあそばすのですね。聖人《しょうにん》がなくなられる時には天に凶徴《ふしぎ》があらわれると録してあります。
僧一 きのうあたり烏《からす》が本堂の屋根の上で世にも悲しそうな声をして鳴いていましたよ。
僧二 禽獣《きんじゅう》草木に至るまで聖者のおかくれあそばすのを嘆き惜しむのでございますね。
僧一 もう重《おも》なお弟子衆《でししゅう》はみなおいでなされましたね。
僧二 まだお見えにならないのは二、三人だけでございます。
僧一 重《おも》なお弟子衆《でししゅう》は皆|聖人《しょうにん》様のお枕《まくら》べに集まっていられます。
僧二 夕方から急にお模様がお変わりあそばしましたようでございます。御臨終もほど近くと思われます……あゝお輿《かご》が来ました。
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輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。
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輿丁 遠江《とおとうみ》の専信房様の御到着でございます。
僧一 皆様のお待ちかねでございます。すぐに奥院へお越しなされませ。
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輿、門に入り退場。
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勝信 (不安のおももちにて急ぎ門より登場)慈信房様はまだ御到着あそばしませぬか。
僧一 いまだお見えなさいませぬ。お奥の御模様は?
勝信 (第一の門のほうを注意しつつ)もう御臨終でございます。(空を仰ぐ)おゝ、変な月の色。
僧二 もう引き潮時になります……あ、輿が来ました。
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輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。勝信注意を集める。
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輿丁 高田の顕智房様の御到着でございます。
僧一 急ぎ奥院へ。もはや御臨終でございます。
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輿、門に入り、退場。
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勝信 善鸞様のおそいこと。(庭をうろうろする)
僧一 もはやお越しあそばさなくてはお間に合いませぬが。
僧二 (不安なる沈黙)灯《ひ》が。提灯《ちょうちん》でございます……輿が来ました。
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勝信注意を緊張する。輿一丁登場。急ぎ門のほうに来る。
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勝信 (輿《かご》のほうに馳《は》せ寄る)善鸞様ではございませぬか。
輿丁 はい。稲田《いなだ》の慈信房様で。
善鸞 (輿より飛びおりる)
勝信 善鸞様。
善鸞 おゝ、勝信殿。父は、父は?
勝信 もはや御臨終でございますぞ。
善鸞 おゝ。(よろめく)
勝信 御勘気はとけました。あなたをお待ちかねでございます。
善鸞 父は会ってやると申しますか。
勝信 ゆるすと言って死にたいとおっしゃいます。
善鸞 (奥へ駆け込もうとする)
勝信 お待ちなされませ。ただ一つ。あなたは仏様をお信じなされますか。
善鸞 わたしは何もわかりません。
勝信 お父上はたいそうそれを気にしていられます。きっとあなたにそれをおたずねなされます。
善鸞 わたしは何も信じられないのです。
勝信 信じるといってください。信じると。お父上のお心が安まるために。
善鸞 でもわたしは…………
勝信 この世を去る人の心に平和をあたえてあげてください。
善鸞 (不安そうに)えゝ。
僧三 (いそぎ門より登場)善鸞様はまだお見えなさいませぬか。
善鸞 ただ今到着つかまつりました。
僧三 一刻も早く奥院へ。皆様お待ちかねでございます。もはや御最後も迫りました。
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退場。
善鸞、勝信門に馳《は》せ入る。輿《かご》それにつづく。僧二人も退場。舞台一瞬間空虚。黒き鳥四、五羽庭の木立ちより飛びいで、月の前をかすめて怪しげなる声にて鳴きつつ、屋根の上を飛ぶ。舞台回る。
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      第四場

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舞台、第二場に同じ。夜。仏壇にあかあかと灯明がともっている。行灯《あんどん》の灯影《ほかげ》に弟子衆《でししゅう》、帰依《きえ》の武家、商人らつつしみ並びいる。親鸞の寝床のそばに医者侍して脈をとりいる。唯円は枕《まくら》もとに近く侍して看護しつつおり。不安の予感一座を支配している。
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親鸞 (目をつぶり、小さき声にて語る。あたり静かなるためその声は明らかに聞き取らる、言葉は時々夢幻的となり、また独白のごとくになる)だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証《あかし》ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。わしは身にあまる、もったいない気がする。わしはそれに相当しているとは思われないのだ。だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬《き》られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、ほとんど信じられぬような死に方をするものもある。やがて愛らしい花嫁となる処女《むすめ》が、祝言《しゅうげん》の前晩に頓死《とんし》するのもある、母親の長い嘆きとなるのも知らずに。麻痺《まひ》した心《しん》の臓のところに、縫いかけた晴れ着をしっかり抱き締めたりしてな。あるいはつい先刻まで快活に冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬのもある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないように残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。あの観経《かんぎょう》にある下品往生《げぼんおうじょう》というのは、手は虚空《こくう》を握り、毛穴からは白い汗が流れて目もあてられぬ苦悶《くもん》の臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業《ごう》によっては何人がそのような死に方をするかもはかられぬのじゃ。だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証《あかし》はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心《しょうじん》を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。もしこの世が浄土で、まだひとたびも偽りというものが存在したことがないならば、だれも疑うという事は無いであろう。信じている心には祝福がある。疑うている心には呪詛《じゅそ》がある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう、信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。(間、声が少しく高くなる)わしは今不思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯《しょうがい》の光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が満ちている。わしのたましいは、最も高く挙《あ》げられ、そして驚くべき広がりに達している。魂の壮観!(夢幻的になる)霊はいま高く高く天翔《あまがけ》って、人間界の限りを越えようとしている。墓場のあちらとこちらとの二つの世界の対立と、その必然の連絡とが、わしの心の眼に見えようとしている、魂をつないでいた見えぬ鎖が今切れようとしている。打ちかちがたくあきらめられていた地上の法則が滅亡して、魂は今新しき天の法則の支配にはいろうとしている。試みられ煉《いた》められたる魂は新生のよろこびにおどっている。今こそすべての矛盾が一つの深い調和に帰しようとする。そしてこの世でのさまざまの苦しみが一つとしてむだでなかったことがわかろうとしている。あゝ。それがみな仏様の愛と義の計画であったことがわかろうとしている。(しみじみとした独白のごとくになる)なにもかもよかったのだな。わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。ゆきずりにふと挨拶《あいさつ》をかわした旅の人も、何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしとはなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。
専信 (登場。弟子《でし》たちに一礼する)ただ今到着いたしました。
唯円 専信殿、一刻も早くお師匠様のおそばに。
専信 (親鸞の寝床のそばに寄る)お師匠様、専信でございます。
親鸞 (目をひらく)専信か。よく来てくれた。(目おのずから閉ず)わしはいよいよ召されるのじゃ。
専信 安らかに往生《おうじょう》の本懐を遂げられますよう。
親鸞 先に往《い》って待っている。
専信 お師匠様の御恩はいつまでも忘れませぬ。師弟の縁ほど深い、純《きよ》いものはありますまい。
親鸞 あの世でふたたび会いましょう。もう二度と別れることのない所でな。
専信 わたしもあとから参ります。じきに参ります。(涙ぐむ)ほんとうにじきでございます。
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弟子衆《でししゅう》涙ぐむ。顕智登場。一同に会釈する。唯円「すぐに師のそばへ」と目くばせする。
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顕智 (親鸞の枕《まくら》もとに寄る)顕智でございます。おわかりでございますか。
親鸞 (目をひらく)わかります。(目を閉じる)なにごとも浄土でな。
顕智 はい。
親鸞 お前の国の御法儀は。
顕智 ますます隆盛でございます。
親鸞 専空《せんくう》は。
顕智 この春|奥州《おうしゅう》へ発足《ほっそく》いたしました。(涙ぐむ)所詮《しょせん》御臨終のお間には合いますまい。
親鸞 それは会うよりもうれしく思います。(
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