間)みんな仲よく暮らしてくれ。わしのなくなったあとは皆よく力をあわせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、不合理な気がすることがあっても、仏と人とに呪《のろ》いをおくるな。およそ祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳をおのれのものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人をねんごろにせよ。仏の名によって皆つながり合ってくれ。(だんだん声が細く、とぎれがちになる)自分らがしてほしいように、人にもしてやらぬのは間違いじゃ、(唯円、筆を水につけてくちびるをうるおす。弟子《でし》たちそれにならう)裁く心と誓う心は悪魔から出るのじゃ……人の僕《しもべ》になれ。人の足を洗ってやれ……履《くつ》のひもをむすんでやれ。(間)ほむべき仏さま。(だんだん夢幻的になる)わしのした悪がみなつぐなわれる。みなゆるされる。罪が美しくなる、罪で美しくなる。奇蹟《きせき》! 七菩提分《しちぼだいぶん》、八聖道分《はっしょうどうぶん》、涼しい鳥の鳴き声がする……園林《おんりん》堂閣のたたずまい……きれいな浴池《よくち》だな。金色《こんじき》の髪を洗っていられる。皆|履《くつ》をぬがれた。あの素足の美しいこと。お手を合わされた。皆歌われるのだな。仏さまをほめるうただな……
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勝信、善鸞登場。
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唯円 善鸞様。早くおそばへ。もう御臨終でございますぞ。
善鸞 (我れを忘れてよろめくように親鸞のそばに寄る)父上様。(声|咽喉《のど》につまる)
親鸞 皆ひざまずいて三宝を礼拝《らいはい》していられる。金色の木《こ》の果《み》が枝をはなれて地に落ちた。皆それをあつめて十方の諸仏を供養なさるのじゃ……あ、花がふる。花がふる…………
唯円 (親鸞の耳に口をあてる)善鸞様がお越しなされました。
善鸞 (声を高くする)父上様。善鸞でございます。わかりましたか。わたしでございます。父上様。
親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす)
侍医 (制する)おしずかに。
善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは…………
親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。
善鸞 わたくしは不孝者です。
親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪《のろ》います。
親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。
善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。
親鸞 その罪は億劫《おっこう》の昔|阿弥陀《あみだ》様が先に償うてくだされた……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。侍医|眉《まゆ》をひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。
善鸞 …………
親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ……
善鸞 (魂の苦悶《くもん》のためにまっさおになる)
親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ。
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一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている。
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善鸞 (くちびるの筋が苦しげに痙攣《けいれん》する。何か言いかけてためらう。ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる)
親鸞 おゝ。(目をつむる)
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一座動揺する。
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侍医 どなた様も、今が御臨終でございますぞ。
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深い、内面の動揺その極に達する。されど森《しん》として声を立つるものなし。弟子衆《でししゅう》枕《まくら》もとに寄る。代わる代わる親鸞のくちびるをしめす。
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親鸞 (かすかにくちびるを動かす。苦悶《くもん》の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善《よ》い、調和した世界じゃ。(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。
侍医 もはやこときれあそばしました。
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尊き感動。一座水を打ちたるごとく静かになる。一同合掌す。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の声ひとしきり。やがてやむ。一瞬間沈黙。平和なヒムリッシュな音楽。親鸞の魂の天に返ったことを示すため。
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[#地から4字上げ]――幕――
底本:「出家とその弟子」岩波文庫、岩波書店
1927(昭和2)年7月1日第1刷発行
1962(昭和37)年8月16日第48刷改版発行
1991(平成3)年6月5日第81刷発行
底本の親本:「出家とその弟子」岩波書店
1917(大正6)年
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2006年9月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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