うにお元気なのですもの。皆が御回復をお祈り申しているのですもの……もうお薬ができたでしょう。お召しあがりなされませ。(宿直《とのい》の部屋《へや》に立とうとする)
親鸞 お薬はもうよろしい。ここにいてくれ。わしはもうかくごしているのじゃ。わしはお前がそのようなことを言って、なぐさめてくれねばならぬほど弱そうに見えるかな。
勝信 …………
親鸞 もうそのようなことは言うてくれるな。私がこの不安に――さけがたい恐怖に打ちかつことができるように励ましてくれ。私は勇気をあつめなくてはならない。そして美しい、取りみださぬ臨終をするために心をととのえなくてはならない。
勝信 (泣く)
親鸞 (しずかに)唯円を呼んで来てくれ。
勝信 はい。(退場する)
親鸞 (しばらく黙然として目を閉じている。やがて目をひらき、何ものかの影に脅かさるるごとくあたりを見まわす)どこからともなく、わしの魂を掩《おお》うてくる、この寒い陰影《かげ》は何ものであろう。薄くなりゆく日輪の光、さびしく誘うような風のこえ、そしてゆうべのあのゆめ見……近づいて来たようだ。(目をつぶる)だれも避けることのできない運命なのだ。何十年のながい間私はその日を待っていなかったろうか。長い、絶え間の無い罪となやみの生涯《しょうがい》の終わりに来るあの永遠の静かな安息を。むなしく待つことの多いこの世の希望のあざむきのなかで、これのみはたしかな、必ず来るものとして、わたしは待っていた。それを考えるになれて親しさができていた。わしはしばしば思わなかったろうか。「わしのこの苦しみと忍耐とは限りなきものではない。必ず終わる日が来る」と。そしてそう思うことは、私の唯一のなぐさめではなかったろうか? ついにその日が来た。それだのにこの不安はどうしたものだろう。この打ちかちがたき不安は! 死は私にとって損失ではない。私は長い間墓場の向こうの完全と調和とをいのち[#「いのち」に傍点]として生きて来たのだ。私はそれを信じているのだ。それだのに私の生命のなかにはまだ死を欲せぬ何ものかが残っている。運命に反抗するこころが。おゝ私はまだ生きていたいのか? この病みほうけたわしが。九十歳になる老人が――この世になんの希望が残っている。なんの享楽が? 煩悩《ぼんのう》の力の執拗《しつよう》なことはどうだろう。今さらながら恐ろしい。私は一生の間運命を素直に受け取って、それを愛して来た。それに事《つか》えて来た。運命にそむく心と戦って来た。そうだ。わしは墓場に行くまでこのたたかいをつづけねばならない。もう、ながいことではない。もうじきだ。休戦のラッパが鳴るのは。その時私は審判の前に立つのだ。一生を悪と戦った、勇ましい戦士として。霊の軍勢の虚空《こくう》を遍満するそのなかに。そして冠が私の頭に載せられる。仏様の前にひざまずいて私がそれをうける。(だんだん顔が輝いて来る)その日から私はあの尊い聖衆《しょうじゅ》のなかの一人に加えられるのだ。なんという平和であろう。なんという光栄であろう。朝夕、仏様をほめる歌をうたって暮らすのだ。その時はもう私の心に罪の影さえおとずれない。そして、(涙をこぼす)この世に苦しんでいる無類のふしあわせな人たちを摂取することができるのだ!(間)おゝ、不安よ、去れ。(黙祷《もくとう》する)
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唯円と勝信と登場。
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唯円 (手をつく、重々しく)御気分はいかがでございますか。
親鸞 もう近づいたようだ。わしは兆《きざし》を感じる。
唯円 (何かいおうとする)
親鸞 (さえぎる)いや。もう避くべからざるものを避けようとすまい。運命を受け取ろう。お互いに大切なことのみ言おう。
唯円 …………
親鸞 わしはもう覚悟している。
唯円 (苦しく緊張する)この上は安らかな御臨終を…………
勝信 (泣く)
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親鸞、唯円沈黙。勝信の泣き声のみ聞こえる。やがてその声もやみ、一座|森《しん》とする。
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親鸞 仏様がお召しになるのだよ。この世の御用がつきたのだよ。この年寄って病み耄《ぼ》けているわしを、この上この苦しい世のなかにながらえさせるのをふびんとおぼしめしてくださるのであろう。わしももうずいぶん長く生きたからな。九十年――といえば人間に許されるまれな高齢だ。もうこの世に暇《いとま》をつげてもいい時だ。(考える)
唯円 お師匠様の百年《ももとせ》の御寿命をいのりたてまつるのでございますけれど…………
親鸞 それが正直な人間の情《こころ》だよ。恥ずかしながらこのわしも、この期《ご》に及んでもまだ死にともないこころが残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。浅ましいことじゃ。わしは一生の間|煩悩《ぼんのう》の林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまで来た。絶えず仏様の御名を呼びながら、業《ごう》の催しと戦って来た。そして墓場にゆくまでそのたたかいをつづけねばならないのだ。唯円、この大切な時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥を少なくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい。
唯円 仏様にお任せあそばしませ。私はあなたのために心をこめて祈っています。(力を入れて)めでたく往生《おうじょう》の本懐をお遂げあそばすよう。
親鸞 死はわしの長い間のねがいだったのだ。ただ一つの希望だったのだ。墓場の向こうに私を待つ祝福をわしはどんなに夢みたことだろう。いまその夢が実となるべき時が来た。めでたい時が。(間)昨夜、私は祈りながら眠りに落ちた。眠りはひとつのありがたい夢で祝された。この世ならぬ、荘厳《しょうごん》と美とに輝く浄土のおもかげがわしの前にひらかれた。わしの魂は不思議な幸福で満たされた。地上の限りを越えたその幸福をわしはなんと言って表わしていいかわからない。あの阿弥陀経《あみだきょう》のなかに「諸上善人倶会一処《しょじょうぜんにんくえいっしょ》」というところがあるね。わしは多くの聖衆《しょうじゅ》の群れにかこまれた。みな美しい冠をかぶっていらしたよ。わしはもったいなくて頭が下がった。わしもきょうからその列の中に加えられるのだと聞いたとき、わしはうれしさに涙がこぼれた。と見るとわしの頭にも同じような美しい冠が載せてあるのだ。その時|虚空《こくう》はるかに微妙《みみょう》なる音楽がきこえ始めた。聖衆の群れはそれに合わせて仏様を讃《ほ》める歌をうたわれた。すると天から花が降って来て、あたりは浄《きよ》い香《かお》りに満ちた。わしは金砂をまいた地の上に散りしく花を見入りつつこれこそあの「曼陀羅華《まんだらげ》」というのであろうと思った。その時私は目がさめたのだ。
唯円 なんという尊い夢でございましょう。
勝信 美しく輝く冠ほど聖人《しょうにん》様にふさわしいものはございますまい。
親鸞 さめてから後も私の心はその幸福のなごりでおどっていた。けれどそのときからわしに一つの兆《きざし》があきらかに感じられはじめた。わしが死ぬということが……虫の知らせだよ……(顔色が悪くなる)
勝信 お臥《よ》っていらっしゃいませ。(親鸞を助けて寝床に臥《ふ》させる)お苦しゅうございますか。
親鸞 うむ水を飲ませておくれ。
勝信 (湯飲みに水をついで親鸞に飲ませる)
親鸞 肉体的苦痛というものはだいぶ人間を不安にするものだ。地上のいちばん大きな直接な害悪だ。多くの人間はこの害悪を避けるためには、魂の安否を忘れてしまうほどだ。人間に与えられた刑罰だ。わしも断末魔の苦しみが気にかかる。わしはその苦しみに打ちかたねばならない。この最後の重荷を耐え忍ばねばならない。(額に玉のような汗をかく)何もかもじきにすむのだ。そのあとには湖水のような安息が、わしの魂を待っているのだ。
唯円 そしてひかり輝く光栄が?
親鸞 死はすべてのものを浄《きよ》めてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげられてゆるされるであろう。墓場に生《は》えしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう。わしのおかした悪は忘れられて、人は皆わしを善人であったと言うであろう。わしもすべての呪《のろ》いを解いてこの世を去りたい。みなわしに親切なよい人であったとおもい、そのしあわせを祈りつつ、さようならを告げたい。
唯円 (勝信と顔を見合わす)お師匠様、あなたは善鸞様をおゆるしあそばしますか。
親鸞 わしはゆるしています。
唯円 何とぞ善鸞様をお召しくださいませ。
親鸞 …………
勝信 (泣く)あなたの口ずからゆるすと言ってあげてください。
唯円 私の一生の願いでございます。お弟子衆《でししゅう》も皆それを願っていないものはありません。御臨終にはぜひとも御面会あそばさなくては、あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。私は十五年前にこの事を一度申し上げてから、きょうまで黙って来ました。その間一日もこの事を思わぬ日とてはございませんでした。絶えず祈っていました。今度ばかりは私の願いをかなえてください。あとに悔いの残らぬよう、すべてと和らいでくださいませ。それはあなたのただ今おっしゃったお言葉でございます。仏様のお心にかなうことでございます。末期《まつご》の水は必ず善鸞様がおくみあそばさなくてはなりません。この期《ご》に及んで私はもう何も申し上げることはございません。(涙をこぼす)ただ安らかな御最後を。すべてと和らいだ平和な御臨終を…………
親鸞 (涙ぐむ)みなの勧めに従いましょう。
唯円 おうれしゅう存じます。(手をつきうつむく、畳の上に涙が落ちる)先日おたより申し上げておきました。きょうあたり御到着あそばすはずでございます。
親鸞 善鸞はこのごろはどうして暮らしていますか。
唯円 稲田で息災でお暮らしあそばされます。
親鸞 仏様を信じていますか?
唯円 はい。(不安をかくす)たいそうお静かにお暮らしあそばしていらっしゃるようでございます。
勝信 善鸞様がどんなに、お喜びあそばすでしょう………けれどあゝ、それがすぐ長いお別れになるとは! (泣く)
親鸞 もう泣いてくれるな。(間)ただ祈ってくれ。わしはだいぶ心が落ちついて来た。魂を平らかにもちたい。静かにしておくれ。平和のなかに長い眠りにつきたいから。(勝信涙をおさえる。しずかになる)一生を仏様にささげてはたらいたものの良心の安けさがわしを訪れて来るようだ。あの世へのそこはかとなき思慕のここちにたましいは涙ぐみつつ、挙《あ》げられてゆくような気がする。しめやかな輝き、濡《ぬ》れたこころもちが恵みのようにわしをつつむ……唯円。もっとそば近く寄っておくれ。お前の親しい忠実な顔がもっとよく見えるように。
唯円 (ひざをすすめる)あなたのたましいに祝福を。
親鸞 おゝ、お前のたましいに祝福を。お前は一生の間よく私に仕えてくれた……私の枕《まくら》もとの数珠《じゅず》を取ってくれ。(数珠を受け取り手に持ちて)この桐《きり》の念珠はわしの形見にお前にあげる。これはわしが法然《ほうねん》様からいただいたのだよ。(唯円数珠を受け取る)わしが常々放さず持っていたのだ。貫ぬきとめたこの数珠には三世の諸仏の御守りがこもっている。わしがなくなった後この数珠を見てはわしを思い出しておくれ。わしは浄土でお前のために祈っているのだから。(だんだん声の調子がちがってくる)寺の後事はお前に託したぞ。仏様に祈りつつ、すべての事を皆と和らぎ、はかって定めてくれ。この世には無数の不幸な衆生《しゅじょう》がいる。その人たちを愛してくれ。仏様のみ栄えがあらわれるように。(息をつく)
唯円 あとの事はお案じなさいませんように。及ばずながら私が皆様と力をあわせて、法の隆盛をはかります。仏さま
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