う誓った。そして運命に向かってか弱いかいなをふるった。そして地に倒された。多くのふしあわせな人々がそのようにして墓場に眠っている。
唯円 たすけてください。
親鸞 私はお前のために祈る。お前の恋のまどかなれかしと。これ以上のことは人間の領分を越えるのだ。お前もただ祈れ。縁あらば二人を結びたまえとな。決して誓ってはならない。それは仏の領土を侵すおそろしい間違いだ。けれど間違いもまた、報いから免れることはできないのだ。
唯円 もし縁が無かったら?
親鸞 結ばれることはできない。
唯円 そのようなことは考えられません。私は堪えられません。不合理な気がいたします。
親鸞 仏様の知恵でそれをよしと見られたら合理的なのだよ。つくられたものは、つくり主《ぬし》の計画のなかに自分の運命を見いださねばならぬのだ。その心をまかすというのだ。帰依《きえ》というのだ。陶器師《すえものし》は土くれをもって、一の土偶を美しく、一の土偶を醜くつくらないであろうか?
唯円 人間のねがいと運命とは互いに見知らぬ人のように無関係なのでしょうか。いや、それは多くの場合むしろ暴君と犠牲者とのような残酷な関係なのでしょうか。「かくありたし」との希望を、「かく定められている」との運命が蹂躙《じゅうりん》してしまうのでしょうか。どのような純な、人間らしい、願いでも。
親鸞 そこに祈りがある。願いとさだめ[#「さだめ」に傍点]とを内面的につなぐものは祈りだよ。祈りは運命を呼びさますのだ。運命を創《つく》り出すと言ってもいい。法蔵比丘《ほうぞうびく》の超世の祈りは地獄に審判されていた人間の運命を、極楽に決定せられた運命にかえたではないか。「仏様み心ならば二人を結びたまえ」との祈りが、仏の耳に入り、心を動かせばお前たちの運命になるのだ。それを祈りがきかれたというのだ。そこに微妙な祈りの応験があるのだ。
唯円 (飛び上がる)私は祈ります。私は一心こめて祈ります。祈りで運命を呼びさまします。
親鸞 祈りの内には深い実践的の心持ちがある。いや、実行のいちばん深いものが祈祷《きとう》だよ。恋のために祈るとは、真実に恋をすることにほかならない。お前は今何よりもお前の祈祷を聖《きよ》いものにしなくてはならない。言いかえればお前の恋を仏のみ心にかなうように浄《きよ》めなくてはならない。
唯円 あゝ、私は仏のみ心にかなう、聖い恋をしたい。お師匠様どのような恋が聖い恋でございますか。
親鸞 聖い恋とは仏の子にゆるされた恋のことだ。いっさいのものに呪《のろ》いをおくらない恋のことだ。仏様を初めとし恋人へも、恋人以外の人にも、また自分自身へも。
唯円 (一生懸命に傾聴している。時々不安な表情をする)
親鸞 (厳粛に)仏様に呪いを送らぬのに二つある。一つは誓わぬ事。他の一つは、たとい恋が成らずとも仏様を恨みぬ事。
唯円 つまり仏様にまかせることでございますな。
親鸞 そのとおりだ。恋人以外の人に呪いをおくらぬとは、恋人を愛するがゆえに他人をそこなうようにならないことだ。恋の中にはこのわがままがある。これが最も恋を汚すのだ。今度の騒ぎを起こしたのはこのわがままが種になったのだ。お前は恋のために私をだまし、先輩や朋輩衆《ほうばいしゅう》に勤めを欠いた。恋ぐらい排外的になりがちなものはないからな。また多くの恋する人は他人を排することによって、二人の間を密接にしょうとするものだ。「あのような人はいやです」と言うと、「あなたは好きです」ということを、ひそかに、けれどいっそうつよく表現することになるのでな。そこに甘味があるからな。だが、罪なことだよ。考えてごらん、他人を呪《のろ》うことで、自分をたのしくしょうとするのではないか。
唯円 私はあの人の事で胸がいっぱいになって、ほかの人の事を考える余裕がないのです。またそれでなくては、愛しているような気がしません。
親鸞 そこに恋の間違いがあるのだ。愛の働きには無限性がある。愛は百人を愛すれば百分されるような量的なものではない。甲を愛しているから、乙を愛されないというのは真の愛ではない。法蔵比丘《ほうぞうびく》の水の中、火の中での幾万劫《いくまんごう》の御苦労はあまねく、衆生《しゅじょう》の一人、一人への愛のためだったのだ。聖なる恋は他人を愛することによって深くなるようなものでなくてはならない。会ってくださいと恋人が言って来る。自分も飛んで行きたいほどに会いたい。けれどきょうは朋輩《ほうばい》が病気で臥《ね》ていて自分が看護してやらねばならない時にはどうするか? 朋輩をほっておいて夢中になって会いに行くのが普通の恋だ。その時その朋輩を看護するために会いたさを忍び、また会おうと言って来た恋人も、ではきょう来ないで看護してあげてくださいと言って、その忍耐と犠牲とによって、自分らの恋はより尊いものになったと思い、あとではさびしさに堪えかねて、泣いて恋人のために祈るようならば聖なる恋と言ってもいい。そのとき会わなかったことは、恋を薄いものにしないで、かえって強い、たしかなものにするだろう。それが祝福というものだ。
唯円 私のして来たことは聖《きよ》い恋の反対でした。自分の楽しさのために他人を傷つけていました。
親鸞 自分自身に呪《のろ》いをおくらないとは、自分の魂の安息を乱さないことだ。これが最も悪いことで、そして最も気のつかないことなのだ。お前は眠れないね。お前の心はうろうろして落ち付かないね。お前はやせて、色目も青ざめている。散乱した相《すがた》じゃ。お前は自分をみじめとは思わないか。(あわれむように唯円を見る)
唯円 (涙を落とす)浅ましいとさえ思います。私は宿無し犬のようにうろうろしています。(自分をあざけるように)きょう、松《まつ》の家《や》のお内儀《かみ》に、泥棒猫《どろぼうねこ》だとののしられました。私の小指ほどの価もないあの鬼ばばに!
親鸞 そのような言葉使いをお恥じなさい。お前はまったく乱れている。自分を尊敬し、自分の魂の品位を保たなくては聖なる恋ではない。我れとわが身をかきむしるのはこの世ながらの畜生道《ちくしょうどう》だ。柔和忍辱《にゅうわにんにく》の相が自然に備わるべき仏の子が、まるで狂乱の形じゃ。
唯円 おゝ。私はどうしましょう。私は自分の影を見失いそうです。(動乱する)
親鸞 待て、唯円。も一ついちばん本質的なのが残っている。お前はお前の恋人に呪いをおくってはならない。
唯円 私があの女を呪うのですって。いのちにかけても慕うている恋人を?
親鸞 そうだ。よくお聞き。唯円。そこに恋と愛との区別がある。その区別が見えるようになったのは私の苦しい経験からだ。恋の渦巻《うずまき》の中心に立っている今のお前には、恋それ自身の実相が見えないのだ。恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私《わたくし》の感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合わせているきわどいものだ。恋人どうしは互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強《し》うるものさえある。それを皆愛の名によってするのだ。愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命をしあわせにするとは限らない。かえではお前をしあわせにしたか。お前は乱れて苦しんでいるな。そしてお前はかえでをしあわせにしたか?
唯円 (ある光景を思い浮かべる)おゝ。あわれなかえでさん!
親鸞 恋が互いの運命を傷つけないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。慈悲で哀れまねばならない。仏様が衆生《しゅじょう》を見たもうような目で恋人に対せねばならない。自分のものと思わずに、一人の仏の子として、赤の他人として――
唯円 (叫ぶ)できません。とても私にはできません。
親鸞 そうだ。できないのだ。けれどしなくてはならないのだ!
唯円 (眩暈《めまい》を感ずる)あゝ、(額に手をあてる)互いに傷つけ合いながらも、慕わずにはいられないとは!
親鸞 それが人間の恋なのだ。
唯円 (独白のごとく)あゝ、いったいどうすればいいのだ。
親鸞 (しずかに)南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》だよ。(目をつむる)やはり祈るほかはないのだよ、おゝ仏さま、私があの女を傷つけませんように。あの女を愛するがゆえにとて、ほかの人々をそこないませんように。わたし自らを乱しませんように――
唯円 (手を合わせる)縁あらば二人を結びたまえ。
親鸞 おゝ。そのように祈ってくれ。そして心をつくしてその祈りを践《ふ》み行なおうと心がけよ。できるだけ――あとは仏さまが助けてくださるだろう。
唯円 (沈黙、だんだん感動高まり、ついにすすり泣く)
親鸞 お慈悲深い仏様に何事もまかせたてまつれ。何もかも知っていらっしゃるのだよ。お前のこころのせつなさも。悲しさもな。(祈る)おゝ、仏さま、まどかなおわりを、あわれなものの恋のために!
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[#地から4字上げ]――幕――
[#改ページ]

    第六幕

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場所 善法院御坊
時  第五幕より十五年後     秋
人物 親鸞《しんらん》            九十歳
   善鸞《ぜんらん》(慈信房)       四十七歳
   唯円《ゆいえん》            四十歳
   勝信《しょうしん》(かえで)       三十一歳
   利根《とね》(唯円の娘)      九歳
   須磨《すま》(同)         七歳
   専信《せんしん》(弟子《でし》)
   顕智《けんち》(弟子)
   橘基員《たちばなのもとかず》(武家)
   家来            二人
   侍医
   輿丁《かごかき》            数人
   僧             数人
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      第一場

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善法院境内の庭。
正面および右側に塀《へい》。右側の塀の端に通用門。塀の向こうに寺の建物見ゆ。庭には泉水あり。そのほとりに静かな木立ち、その陰に園亭《えんてい》あり。道は第一の門(見えず)を越えて、境内に入り庭を経て、通用門に入るこころ。朝。

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お利根とお須磨と園亭で手まりをついている。
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お利根 (手まりを拾う)今度はあたしよ。須磨さま。(まりをつく)
二人 (歌う)

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手まりと手まりとゆき合うて、
一つの手まりがいうことにゃ、
姉《あね》さん、姉さん、奉公しょう。
…………………………
ちゅんちゅん雀《すずめ》が鳴いている。
奥様奥様おひなれや。
…………………………
お寺の門で日が暮れて、
西へ向いても宿がなし、
東へ向いても宿がなし…………
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[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お利根 (まりを落とす)あら。
お須磨 そらまりがそれた。(まりを拾おうとする)
お利根 (すばやくまりを拾いあげてすぐつきかける)
お須磨 あたしよ。ねえさま。
お利根 お待ちよ。も一度あたしよ。今のはかんにんよ。
お須磨 いやよ。私がつくのよ。
お利根 お待ちと言ったら。
お須磨 いや。いやですよう。(涙ぐむ)
お利根 (かまわずつきかける)茶の木の下に宿があって……
お須磨 (まりをとろうとする)あたしだわ。あたしだわ。
お利根 (くるりと横を向く)一ぱいあがれや長六さん。二はいあがれや長六さん。三杯目にゃ……
お須磨 (泣きだす)ねえさま。ひどいよ。
お利根 (おどろく)さあ。あげましょう。これ。(まりを持たせようとする)
お須磨 (振り放す)いやだよ。いやだよ。(声を高くして泣く)
勝信 (登場。髪を上品な切り髪にしている。門を出ると二人の争うているのを見て馳《は》せ寄る)どうしたのだえ。須磨ちゃん。
お須磨
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