でひきあげられた。そこに幸福と希望とが目の前に見えて来た。その時急にその綱を断ち切ってしまう――おお。そんな残酷な事が私にできるものか。そんなことをするのが仏様のみ心にかなうものか。そんな事は考えられない。私はできない。(熱に浮かされたようになる)あの女とともに生きたい。どこまでも、いつまでも。
僧二 寺はどうなってもいい。法はどうなってもいいのですか。
僧三 若いお弟子《でし》たちはつまずいても。
唯円 あゝ、ではわからなくなる。(身をもだえる)
僧二 あなたは二つの中から選ばなくてはならない。恋かあるいは法か――
唯円 不調和だ。どうしても不合理だ。恋を捨てなくては、法が立たないというのは無理だ。どちらもできなくては――
僧三 なんという虫のいい事だろう。
僧二 あなたは女郎と仏様とに兼ね事《つか》える気なのですか。私はあきれてしまう。恥を知りなさい。
僧一 (しずかに)そんなに荒々しくしてはいけません。落ちつきなされ。唯円どの。あなたはさぞ苦しいでしょう。けれどその苦しいのは当座の事です。日がたつにつれていつのまにやらあわくなります。人の心というものは一つの対象に向かってでなくては燃えないような狭いものではない。蝶《ちょう》は一つの菫《すみれ》にしか止まらないというわけはない。あなたはこの事を今は特に著しく、重大に感じていられる。さもあることです。けれど私たちのような老人から見れば、ただどこの太郎もそのお花を見つけるという一つの普通の事に過ぎません。
唯円 (いかる)私はそのような考え方をするのを恥じます。
僧一 そんなに興奮しないほうがいいです。私はただ年寄りとして若いあなたに、まあ、そのようなものだということを言ったまでのことですから。もうあなたに向けて議論をいくらしてもしかたがありません。私たちは、私たちの考えを行なうよりほかに道がありません。だが、ただも一度だけ伺います。あなたはどうしてもあの遊女を思い切る事はできませんか。
唯円 どうしてもできません。
僧一 ではしかたがありません。(僧二、三に)もう話してもだめですからあちらに参りましょう。(立ち上がる)
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僧二、三立ち上がる。三人の僧行こうとする。
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唯円 (僧一の衣を握る)なんとなされます?
僧一 私はあなたと一つお寺にいることはできません。私が出るか、あなたが出るか、お師匠様に決めていただきます。
唯円 それはあまりです。まあお待ちくださいまし。
僧一 私は申すだけのことは申しました。(衣を払う)もうほかにいたし方がございません。
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僧三人退場。
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唯円 (あとを見送り茫然《ぼうぜん》とする。ため息をつく)私はどうすればいいのだろう。恋はこのようにつらいものとは思わなかった。ほとんど絶え間のないこの心配、そしてたましいは荷を負わされたように重たい気がする。(間)けれどその奥からわいて来る深いよろこび! おののくような、泣きたいような――死にたいようなうれしさ! (狂熱的に)かえでさん、かえでさん、かえでさん。(自分の声に驚いたようにあたりを見回す。考えがちになる)けれど私は間違ってるのだろうか。見えない力に捕えられているのではあるまいか。(仏壇のほうを見る)あのとぼとぼする蝋燭《ろうそく》の火が私の心に何かささやくような。あの慈悲深そうなおん顔。さぞ私があわれにみじめに見えることだろう。私は何もわかりません。今していることがいいのやら、悪いのやら、行く先々どうなることやら、思えば私はこれまで人を裁くことがどんなにきびしかったろう。こんなに弱いみじめな自分とも知らないで。さっきはあんなに強くいったけれど。私はなんだか、何もかも許されない人間のような気がする。お慈悲深いほとけ様、(手を合わせる)どうぞ私をゆるしてくださいませ。
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[#地から4字上げ]――黒幕――

      第二場

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親鸞聖人居間
舞台 第三幕、第二場に同じ
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人物 親鸞《しんらん》 唯円《ゆいえん》 僧三人
時  同じ日の夜

僧三人、親鸞と語りいる。
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親鸞 私もうすうす気はついていたのだ。けれど黙って見ていたのだよ。このようなことはあまりはたでかれこれ騒ぐのはよくないからな。
僧一 私たちもそう思ってきょうまで見のがして来ました。そして若いお弟子衆《でししゅう》の騒ぐのをおさえていました。そのうちには、唯円殿も自分の所業を反省するのであろうと考えましたので、けれど唯円殿の身持ちはだんだん悪くなるばかりのようでございます。
僧二 日に日にわがままがつのります。なんとか言っては外出《そとで》いたします。そしておそくまで帰りませんのでお勤めなども怠りがちでございます。
僧三 いつもため息をついたり、泣きはらしたような目をして控えの間などに出たり、庫裏《くり》で考え込んだりしているものですから、ほかの弟子衆の目にもあまるらしいかして、ずいぶんやかましく申しています。
僧一 唯円殿が木屋町あたりのお茶屋の裏手をうろうろしていたのを見たものがありまして、私のところに告げて来ました。取りみだして、うろたえた、浅ましい姿をしていましたそうです。お銭《あし》無しのかくれ遊びなのでお茶屋でもおこっているそうです。私はもう若いお弟子たちをしずめることができなくなりました。
僧二 相手は松《まつ》の家《や》というお茶屋のかえでとかいうまだ十七の小さい遊女だそうですがね。昨年の秋かららしいのです。善鸞様|御上洛《ごじょうらく》の際唯円殿がたびたびひそかに会いに行ったらしいのです。その時知り合ったものと見えます。なにしろ困ったことでございます。
僧三 きょうもお勤めが済んでから晩《おそ》く帰りました。私たちが本堂に行ったら、仏壇の前にうつぶして泣いていました。顔は青ざめ、目は釣《つ》り上がって、ただならぬさまに見えました。私たちはいつまでも、ほっておいては、唯円殿の身のためでないと存じましたので、ねんごろに意見いたしました。
僧一 寺のため、法のためを説いて、くれぐれも諭《さと》し聞かせました。けれど耳にはいらぬようでございます。
僧二 自分のしている事をあまり悪いとは思っていないように見えます。自分でそう申しました。
僧三 なんという事でしょう。その遊女と夫婦約束をしたというのです。そして私たちの目の前でその女をほめたてました。
僧一 私はねんごろにものの理と非を説き、法のために、その遊女を思いきるように頼みました。けれどあくまで思い切る気は無いと言い切りました。
僧二 おしまいには法と恋とどちらもできなくてはうそだと言い出しました。もう我れを忘れて狂気のようになっていました。
僧三 私たちの意見を聞きいれぬのみか、反対に私たちに向かって、説教しょうとする勢いでした。
僧二 なにしろ驚きました。あきれて、浅ましくさえなりました。さすが忍耐深い永蓮《ようれん》殿もついにお立腹あそばして、唯円殿と一つお寺にいることはできぬとおっしゃいました。
僧一 私は唯円殿と同じお寺にいる恥辱に堪える事はできません。私が出るか、唯円殿が出るか、どちらかです。私はお師匠様に裁いていただこうと存じてここに参りました。
親鸞 (黙って考えている)
僧二 御老体の永蓮《ようれん》殿が長らく住みなれたこのお寺をお出あそばすことはできません。
僧三 今あなたに去られては若いお弟子《でし》たちをだれが取り締まるのでしょう。かつは功績厚きあなたさま――
僧一 いいえ。私はこのままではもう寺にいても若いお弟子たちを取り締まる力はありません。
僧二 いいえ。あなたに出てもらっては困ります。(親鸞に)お師匠様永蓮殿はあのように申されます。この上はあなたの御裁決を仰ぐほかはございません。
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三人の僧親鸞を注視す。
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親鸞 私が悪いのだよ。(間)私にはっきりわかって、そして恐れずに言うことができるのはただこれだけだ。ほかの事は私には是非の判断がはっきりとつかないのだ。ちょっとわかっているようでも、深く考えるとわからなくなってしまう。唯円の罪を裁く自信が私にはない。悪いようにも思うけれど無理は無いようにも思われてな。(考え考え語る)このようなことになったにも、私に深い、かくれた責任がある。私はさっきから、お前たちが唯円を非難するのを聞きながら、私の罪を責められるような気がした。だいち男と女の関係についての考えからが、私に断乎《だんこ》たる定見がないのだ。昨年の秋だったがね。唯円が私に恋の事をしきりにきいていた。恋をしてもいいかなどと言ってね。私はいいとも悪いとも言わない、しかしもし恋するならまじめに一すじにやれと言っておいた。私は唯円のさびしそうにしているのを見て、私の青年時代の心持ちから推察して、たいていその心持ちがわかるような気がした。これはとても恋いをせずにはおさまるまいと思われたのでな。そのとき私は恋は罪にからまったものだとは言った。しかしさびしく飢えている唯円の心になんのそれが強く響こう。唯円は自分のあくがれに油をそそがれたような気がしたに相違ない。さびしさはますます強くなって行く、そこへ善鸞が花やかな光景を見せつける。向こうから誘い寄せる美しい女の情熱があらわれる。それにふらふらと身を任せたのだ。一度身を任せればもう行くところまで行かねば止まれるものではない。「一すじにやれ」私の言葉を思い出したにちがいない。おゝ、私はおだてたようなものだ。それに(苦しそうに)善鸞の稚《おさ》ないものの運命をおそれない軽率な招き、私はよそ事には思われない。私はどうしても唯円の罪を分け負わなくてはならない。その私がどうして裁くことができよう。
僧一 ごもっとものようではありますが、あなたはあまり神経質にお考えあそばします。あなたは恋をすなと禁じられなかったまでのことです。恋をせよ。ことに遊女と隠れ遊びをせよとすすめられたのではありません。唯円殿が自分の都合のいいように勝手に解釈したのです。善鸞様の事について私は何も申し上げることはありません。あなたの関係あそばしたことではなし。唯円殿があなたに内緒で行ったのですもの。
親鸞 そうばかりも考えられなくてな。
僧二 あなたのようにおっしゃれば何もかも皆自分の責めになってしまいます。
親鸞 たいていのことは、よくしらべてみると自分に責めのあるものだよ。「三界に一人の罪人でもあればことごとく自分の責めである」とおっしゃった聖者もある。聖者とは罪の感じの人並みすぐれて深い人のことを言うのだよ。(間)私が悪い、善鸞はことによくない。ほんとに人を傷つけるようにできているふしあわせな生まれつきだ。
僧三 では唯円殿には罪がないように聞こえます。
親鸞 唯円も悪いのだよ。悪いという側から言えば皆わるいのだよ。無理はないという側から言えばだれも無理はないのだよ。みな悪魔のしわざだよ。どのような罪にでも言い分けはあるものだ。どのような罪も皆|業《ごう》といふ悪魔がさせるのだからな。そちらから言えば私たちの責任では無いのだ。けれど言い分けをしてはいけない。自分と他人とをなやますのは皆悪いことだ。唯円もたしかに悪い。周囲の平和を乱している。自分の魂の安息をこわしている。
僧一 それはたしかに悪うございますとも。あれほど恩遇を受けているお師匠様のお心を傷《いた》めまつることだけでも容易ならぬ事である。私たちの心配、若い弟子衆《でししゅう》の激昂《げっこう》、お寺の平和と威厳をそこのうています。私の考えでは事は唯円殿の一身から生じていると思います。従って唯円殿の心がけ一つでお寺の平和と秩序とは回復できる。またあの人は
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