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かえで 善鸞様からおたよりがありますの。
浅香 えゝ、おりおり。
かえで お国ではどうして暮らしていらっしゃるの。
浅香 やはりお寺にすわっていらっしゃるのよ。しきたり[#「しきたり」に傍点]で仏様は拝むけれど、ほんとうは何も信じられないで、心はだんだんさびれて行くばかりだとお手紙に書いてありました。
かえで あのようなさびしいかたはありませんね。つきあえば、つきあうだけ、どんなに心の奥に、不幸を持っていらっしゃるかが思われるような気がしました。
浅香 善鸞様はほんとうはおとう様に会いたくて京にいらっしゃったのよ。けれどおとう様のお身のためや、お弟子衆《でししゅう》や、親戚《しんせき》のかたの心持ちや、いろいろな事を考えて、とうとう会わない事に決心なすったのよ。
かえで ではさびしいお心で御帰国なすったでしょうねえ。
浅香 おいとしいと言うよりも、あわれなと言うくらいでしたよ。(間)けれど唯円様のおかげでおとう様のお心持ちがよくわかったので、たいへん安心なさいました。別れていて互いの幸福を祈る――すべての人間は隣人としてそうするのが普通のさだめ[#「さだめ」に傍点]なのだ。人間はどのように愛し合っていても、いつもいっしょにいられるものではない。別れていて祈りを通わすほかは無い。お前とおれでもそのとおりだ、もうじきお別れしなくてはならない。今度はいつ会えるかわからない。別れてもおれのために祈ってくれ。おれもお前のしあわせを祈るからとおっしゃいました。
かえで 善鸞様は唯円様をたいへんお好きなさいましたね。
浅香 あんな温《あたた》かい、純潔な人は無いと言って、いつもほめていらっしゃいました。
かえで 唯円様も、善鸞様を皆が悪く言うのはわけがわからないと言っていらっしゃいました。
浅香 あのかたは善《よ》い心が傷つけられたために、調子が狂って来たのです。いったん心の調子が狂うと、なかなか元には返りませんからね。それには始終そのすさんだ心を温《あたた》め潤す愛がはたになければなりません。それだのにあのかたの周囲には、その愛が欠けている代わりに、呪《のろ》いとさげすみとが満ちているのですもの。
かえで あのかたはまたその他人の非難を気にかけずにいられるような人ではありませんでしたからね。自分では強そうな事を言っていらっしゃるくせに。いつかも私にお前はおれを善い人と思うか、悪い人と思うかと真顔でおっしゃいましたから、私はあなたのように心の善《よ》い人は知りませんと言ったら、ほんとうにそう思うかとおっしゃるから、あなたにはお世辞は申しませんと言ったら、涙ぐみあそばしてね。かえで、私はほんとうは善い人間なのだよ。皆が悪口を言うような人間ではないよ、私を悪く思ってくれるなとおっしゃいました。ちょうどその日お座敷で私に無理にお酒を飲ませたり、いたずらをなすった夜でしたのよ。
浅香 つきあうだけ深みの出る人でしたよ。私はあのように手ごたえのあるお客にぶつかった事はありませんでした。
かえで あなたと善鸞様とはいったいどんな仲だったのですの。私は今でもよくわからなくてよ。
浅香 (さびしく笑う)それはあなたと唯円様とみたようなのとは違いますよ。お互いに年を取っていますから。
かえで だってどちらも愛していらしたのでしょう。
浅香 それは愛していましたとも。
かえで ではどうしてあんなにして別れてしまったの。
浅香 それが人生のさびしいところなのよ。私もあのかたもそのようにできるようなさびしい心になってるのよ。今のあなたにはわかりませんけれど。
かえで そうお。でもいつも思い出すでしょう。
浅香 思い出しますとも。
かえで 今度はいつ京にいらっしゃるの。
浅香 いつだかわかりません。
かえで さびしいでしょう。
浅香 (涙ぐむ)ねえさんはそのさびしさにもうなれているのよ。
かえで 私はなんだか心細くなるわ。
仲居 (登場)かえでさん、お花、そのままですぐ来てください。
かえで あゝ、いやだ。今夜だけは出たくない。お座敷などへ出るような気分ではないわ。
浅香 でも辛抱して出ていらっしゃい。さっきの今ですから出ないとおかあ[#「かあ」に傍点]さんがそれこそたいへんよ。
かえで しょうがないねえ。(鏡台の前にすわり、ちょっと顔をなおしてすぐ立ち上がる)ではちょっと。
浅香 (火鉢《ひばち》のそばにもどる)お早くお帰り。
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かえで退場。しばらく沈黙。
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浅香 (火箸で灰をならしつつ)あゝ、火もいつのまにやら消えたそうな。(ため息をつく)私の心はちょうどこの灰のようなものだ。もう若い情熱もなくなった。かえでさんのような恋はとてもできない。自分の不幸を泣く涙もかれて来た。訴える心もだんだん無くなって行く。なんの望みもない。と言って死ぬる事もできない。ただ習慣《しきたり》でなんの気乗りもなしにして来た事をつづけて行くだけだ。何が残っている、何が? ただ苦痛を忍び受ける心と、老いと死と、そしてそのさきは……あゝ何もわからない。あんまりさびしすぎる。(つきふす、泣く、間、顔をあげてあたりをぼんやり見まわす)たれかがたすけてくれそうなものだ。ほんとうにたれかが……
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[#地から4字上げ]――幕――
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    第五幕

      第一場

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本堂
大きな円柱がたくさん立っている大広間。正面に仏壇。左右に古雅な絵模様ある襖《ふすま》。灯盞《とうさん》にお灯明が燃えている。回り廊下。庫裏《くり》と奥院とに通ず。横手の廊下に鐘が釣《つ》ってある。
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人物 唯円《ゆいえん》 僧数人 小僧一人
時  晩《おそ》い春の夕方 第四幕より一月後

僧六人、仏壇の前に座して晩のお勤めの読経《どきょう》をしている。もはや終わりに近づいている。
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僧一同 (合唱)釈迦牟尼仏能為甚難希有之事《しゃかむにぶつのういじんなんけうしじ》。能於裟婆国土五濁悪世《のうおしゃばこくどごじょくあくせ》、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中得阿耨多羅三藐三菩提《こうじょくけんじょくぼんのうじょくしゅじょうじょくみょうじょくちゅうとくあのくたらさんみゃくさんぼだい》。為諸衆生説是一切世間難信之法《いしょしゅじょうせつぜいっさいせけんなんしんしほう》。舎利弗《しゃりほつ》。当知我於五濁悪世行此難事得阿耨多羅三藐三菩提為一切世間説之難信之法是為甚難仏説此経已舎利弗及諸比丘一切世間天人阿修羅等聞仏所説歓喜信受作礼而去《とうちがおごじょくあくせいぎょうしなんじとくあのくたらさんみゃくさんぼだいいいっさいせけんせつしなんしんしほうぜいじんなんぶつせつしきょういしゃりほつぎゅうしょびくいっさいせけんてんにんあしゅらとうもんぶつしょせつかんぎしんじゅさらいにこ》。(鐘)仏説阿弥陀経《ぶつせつあみだきょう》。(鐘)
僧一 なむあみだぶつ。
僧一同 なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。
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この合唱たびたび繰り返さる、一同|礼拝《らいはい》す、沈黙。立ち上がり無言のまま左右の襖《ふすま》をあけて退場。舞台しばらく空虚。小僧登場。夕ぐれの鐘をつく。この所作二分間かかる。無言のまま退場。
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唯円 (登場。青ざめて、目が充血している)もうお勤めは済んだそうな。(ため息をつく。さえた柝《たく》の音がきこえてくる)あ、(耳をすます)庫裏《くり》で夕食を知らせる柝が鳴っている。(仏壇の前にくず折れる)あゝ心のなかから平和が去った。静けさが――あのしめやかに、落ちついた心はどこへ行ったのだろう。だれもいない本堂の、この経机の前にひざまずいて夕べごとの祈りをささげたとき、私のこころはどんなに平和であったろう。あの香炉から立ちのぼる焚《た》きもののにおいのように、やわらかにかおっていた私のたましいはどうなったのだろう。小さな胸を抱くようにして私はその静けさを守っていた。(間)このごろの私のふつつかさ、こころはいつも乱れて飢えている。もう何日眠られぬ夜がつづくことだろう。朝夕のお勤めさえも乱れた心でおこたりがちになっている。たましいはまるで野ら犬のようにうろうろして落ちつかぬ。そうだ野ら犬のようだときょう松《まつ》の家《や》のお内儀《かみ》があざけった。(身をふるわす)物ほしそうな顔をして、人目をおそれて裏口から忍び込もうとするものは、宿無し犬のようだと言った。おゝこの墨染めの衣を着て、顔を赤くして、おどおどと裏口に立っていたのだ。侮辱されてもなんとも得言わずに。みじめな私の姿は犬にも似ていたろう。こじき犬にも。(泣く)
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僧三人、登場。唯円涙をかくし、立ちあがろうとする。
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僧一 唯円殿。
唯円 はい。(立ち止まる)
僧一 少しお話があります。お待ちください。
僧二 あなたのお帰りを待っていたのです。
僧三 まあおすわりなされませ。
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僧三人すわる。
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唯円 (おずおずすわる)何か御用でございますか。お改まりあそばして。
僧一 実はちと伺いたい儀がありまして。(唯円の顔を見る)どうなされました。お顔色がひどく悪い。
僧二 目が血走っていますが。
唯円 …………
僧三 きょうはどちらへお越しなされました。
唯円 木屋町のほうまで。おそくなりまして。
僧一 木屋町のどこに?
唯円 …………
僧二 お勤めを怠りなさるのももうたびたびの事でございます。
唯円 相すみません。(涙ぐむ)
僧三 気をつけてもらわなくては困ります。
僧一 まだお若いとは申しながら。…………
僧二 いや、若い時こそ精進《しょうじん》の心がさかんでなくてはなりません。私たちの若い時には、皆一生懸命に修業したものでしたよ。朝は日の出ぬ前に起きて、朝飯までには静座をして心を練りました。夜はおそくまで経を学んで、有明《ありあけ》の月の出るのを知らなかった事もありました。お勤めを怠るというような怠慢な事は思いも寄らぬ事でしたよ。
僧三 なにしろ今時の若いお弟子《でし》たちとは心がけが違っていましたからね。このように懈怠《けたい》の風《ふう》の起こるのは実に嘆かわしいことと思います。身に緇衣《しえ》をまとうものが女の事を――あゝ私はとうとう言ってしまいました。
僧一 いや言うべき事は言わなくてはなりません。きょうまでは黙っていましたけれど、いつまでもほっておいては唯円殿のおためでありません。だいいち法の汚れになります。(声を強くする)唯円殿、あなたはきょう木屋町の松《まつ》の家《や》にいらしたのでしょう。
僧二 そしてかえでとやら申す遊《あそ》び女《め》のところに。
唯円 …………
僧三 何もかもわかっているのです。六角堂に参詣するとか、黒谷《くろだに》様に墓参のためとか言って、しげしげと外出《そとで》あそばしたのは皆その女と逢引《あいびき》するためだったのでしょう。
唯円 すみません。すみません。
僧二 私はとくからあなたのそぶりを怪しいと思っていたのです。いや、今はもうお弟子衆《でししゅう》でそれに気のつかぬものはありません。三人集まればあなたの事を話しています。
僧三 若いお弟子たちはうらやましがりますからな。私たちみたような年寄りはよろしいけれど。このあいだも控えの間を通っていたら、ふと耳にしたのですが、唯円殿はお師匠様の(変に力を入れる)秘蔵弟子で、美しい女には思われるし、果報者だと申していました。
僧二 (からかうように)あなたの事を陰では墨染めの少将と申しています。
唯円 (くちびるをかむ)おなぶりあそばすのですか?
僧二 い
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