事だけれど、ぶつのはあまりだ。言って聞かせればよかりそうなものだのに。
かえで きっと村萩さんが告げ口をしたのよ。今晩もおかあ[#「かあ」に傍点]さんのそばにいて、意地悪い皮肉や、針のあるいやみをならべましたわ。
浅香 村萩さんもかえ、皆して小さいお前をいじめるなんて。(間)村萩さんはさっきまでここで話して行ったのだよ。お前は気が高くてねえさんたちを軽《かろ》く見ていると言っておこっていたよ。それにお前が打ち明けないのが気に入らないのだよ。
かえで いやなことだ。あの人に打ち明けるなんて。自分の心の内に守っている大切な恋を、軽いチョコチョコした心ない人に安っぽく話す気になれるものですか。私ほんとうにねえさんきりよ。何もかも打ち明けるのは。また私が気が高いって言うのはほんとうかもしれないわ。いつかねえさんが私におっしゃったでしょう。どのような身になっても心に何かのほこりというものを持っていない女はきらいだって。
浅香 (涙ぐむ)よく覚えていてくれた。あゝ、けれど人様から卑しきもののたとえに引かれる遊女の身で、そのような事を考えているのはばかげているかもしれない! かえでさん。私は何も言う事はなくてよ。ただあなたがいとしいだけよ。何もかも耐え忍ぶよりほかありません。あきらめるよりほか――あゝ、あきらめるという心持ちはなんてさびしいこころでしょう。
かえで わかっててよ。ねえさん。(涙ぐむ)あなたがいてくださらなかったら、私はこれまでどうなっていたかわかりませんわ。私はお腹《なか》の内では手を合わせて拝んでいますわ。
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両人沈黙。鼓の音だけきこえる。
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かえで (欄干のそばに行き外をながめる)ねえさん来て御覧なさい。東山から月が出るところよ。
浅香 (かえでのそばに行き欄干にすがる)山の縁《ふち》がぽーっと明るくなっていますね。
かえで 向こう岸の灯《ひ》の美しいこと。
浅香 橋の上を人影がちらほらしていますね。
かえで 私はあのようなところを見ると変に人なつかしい気がしますのよ。
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しばらく黙って夜景を見ている。
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浅香 きょうはどこで会ったの。
かえで 黒谷様の裏手の墓地で。
浅香 うれしかって。(ほほえむ)
かえで それはねえ。だけど私たちは悲しいほうが多いのよ。そして泣いたわ。
浅香 どうして?
かえで 二人いるとひとりでに悲しくなるのよ。それにあのかたはどうかするとすぐに涙ぐみなさるのですもの。
浅香 優しいんですからね。あなたがたは会うとどのような話をするの。(ほほえむ)
かえで (うれしそうに)それはいろいろの事を話しますわ。会いたかった事や手紙の事や、身の上話や、それから行く先々の事や――
浅香 (まじめに)行く先々どうすると言って。
かえで いっしょになるといって。(口早に)私はすまないというのよ。私はこのような身分ですから捨ててくださいというのよ。けれど唯円様はどうしてもいっしょになろうとおっしゃるの。真宗では坊様でも奥様を持ってもいいのですって。
浅香 ではからだの汚れている事も知っての上で。
かえで えゝ。それを思うと苦しくて夜も眠られなかった。しかしその苦しみに打ちかった。あなたのからだの汚れたのはあなたの罪ではなく、あなたの不幸だとおっしゃるのよ。そればかりでなく、たとい、あなたが自分で自分のからだを汚していたとしても私はゆるして愛する気だとおっしゃってくださるのよ。
浅香 (涙ぐむ)よくよくまじめな熱いお心だわね。
かえで 唯円様はそれはまじめよ。私と会っている時でもどうかするとすぐ説教のような堅い話になるのよ。私はまたそのような話を聞くのがうれしいの。むつかしい顔をして、美だの、実在だのと、私にはよくわからないような事をおっしゃる時のあのかたがいちばん好きなのよ。
浅香 (ほほえむ)それでまだ一度も何しないの。
かえで (まじめに)えゝ。そのような事はちょっともないのよ。
浅香 ほんとにあのような人はあるものではない。よくしてあげなさいよ。
かえで それは大切にしますわ。私はもったいないと思っていますのよ。
浅香 私もあのかたは心《しん》から好きです。あなたが、いやな、卑しい人と何するのなら、私お手紙のお取り次ぎなんかまっぴらだけれどね。
かえで ほんとにお世話になりますわね。唯円様もあなたを好いていらしてよ。このあいだもあなたの事をいろいろ気にしてたずねていらしてよ。そして幾度もありがたいといっていられました。
浅香 このあいだの夜はいい都合だったのね。私はふと門口に出て見たら、あのかたが月あかりのなかをうろうろしていらっしゃるのよ。私はいとしくて涙が出てよ。駆けって行って、かえでさんに何か用事はありませんかと言ったら、どうぞこれを頼みますと言って手紙を渡して、あわてて、向こうへ行っておしまいなすったわ。
かえで あの時あなたに会わなかったら、夜通しでもうろうろしていただろうと言っていらっしゃいました。
浅香 あのかたなら、そうしかねなくってよ。(ほほえむ)だけど私はいいお役目が当たったものね。
かえで まあ。あんなことをおっしゃる。(ほほえむ)
浅香 (急に暗い顔をする)これから後はどうして会う気なの。
かえで (心配そうな顔をする)さあ。私はそれが心配でならないのよ。おかあ[#「かあ」に傍点]さんは今晩の権幕では、もうちょっとも外へは出してくれますまい。といって唯円様は宅《うち》へ来てくださる事はできないのだし。
浅香 お銭《あし》の都合をつけなくてはいけますまい。
かえで 唯円様はいくらお銭があっても、私はあのかたにだけはお銭で買われたくはないのよ。私はお客とは思いません。私は娘として取り扱いますときょうもお約束しましたのよ。自分を卑しいものと思ってはいけないとくれぐれもおっしゃったのよ。
浅香 ではあなたがお勤めをやめるよりほかに道はないのではないの。
かえで 唯円様は今にそうしてやるとおっしゃるのよ。
浅香 ふむ。(考える)あのかたに何かあて[#「あて」に傍点]があるのでしょうか。
かえで (不安そうに)どうなのですかねえ。
浅香 あのかたに誠心があっても、世の中の事はなかなか一筋に行かないものでね。
かえで あのかたは世間の事はかいもく[#「かいもく」に傍点]知っていらっしゃらないのよ。私のほうが分別があるくらいなのよ。
浅香 そうでしょうとも。
かえで あのかたはお師匠様に打ち明けて相談するとおっしゃるの。それがただ一つのたよりらしいのよ。
浅香 あの親鸞様に?
かえで えゝ。お師匠様は坊様は恋をしてはいけないとはおっしゃらないのですって。なんでも力になってくださるのですって。遊女だからといって軽蔑《けいべつ》はなさらないのですって。
浅香 何もかもわかっているかたとは善鸞様から聞いていますけれどね。
かえで ねえさん。私はどうなるのでしょうか。
浅香 さあねえ。お弟子《でし》たちにはいい人ばかりはいないそうですからねえ。
かえで ほんとに心細くなってしまうわ。
浅香 それにしても、そうなるまではどうして会う気なの。
かえで しかたがないから、唯円様が河原のほうから回って、石段の所で合図をしてくださる事になってるの、そしたら私が裏口から出て、お手紙を取り換えるお約束になってるのよ。手早くしないと、見つかるとたいへんだけれど、でもちょっとでもお顔が見られるわね。
浅香 そんなにしてまで会いたいの。
かえで ひと目だけでも。(間)唯円様は眠られない夜が多いのですって。私のようなものをでも、そんなにまで思ってくださるのですもの。
浅香 (しみじみと)それであなたも身も心もと思ったの。
かえで えゝ。(涙ぐみてうなずく)
浅香 (気を替える)うまく行きますよ。私はそれを祈ります。私が言ったのは、今急には行くまいと言ったのよ。いろいろとむつかしい事が起こるでしょうけれど、二人の心さえしっかりしていればきっと成就すると思うわ。辛抱が第一よ。
かえで どんなに苦しくても辛抱しますわ。
浅香 気が強くなくてはいけませんよ。私などはすぐに気が弱くなるからいけないのです。自分の幸福を守る事に勇敢でなくてはだめよ。皆はおとなしい人には勝手な事を仕向けて、その人のいのち[#「いのち」に傍点]よりも大切にしているものをでも造作もなく奪って行ってしまいますからね。そしてそれを義理だと言って無理にこらえさせますからね。善鸞様がいつも言っていらっしたっけ。義理を立て貫ぬく覚悟がない時には、なまなか義理を立てようとするとかえってあとで他人に迷惑をかけるような事になるって。善鸞様でも初め、恋人と心をあわせて、強く自分たちの幸福のために戦われたら、あとで皆を苦しめ、自分も泣かなくてもよかったのだわ。またいったん自分の幸福を犠牲にする気になったのなら、もう自分は死んでしまった者と思って、一生涯《いっしょうがい》さびしく強く生き通さなくてはならないのです。けれど優しい人はそうは行かないのね。初めは義理にからまれるし、後にはさびしさに堪えられないし。(間)あの人はほんとうに不幸な人だ。(間)あなたはまけてはいけませんよ。
かえで 私は一生懸命になりますわ。きょう唯円様もどのような困難にも戦って必ず勝利を占めようとおっしゃいました。ねえさんも力を貸してくださいね。
浅香 私はどんな事でもしてあげますわ。
かえで ねえさんの御恩は忘れません。(涙ぐむ)
浅香 私は親身の妹のように思っているのよ。
かえで 私もほんとうのねえさんのような気がするのよ。
浅香 あなたが初めて家《うち》に来たとき、私の部屋《へや》に来てこれからお頼み申しますと言って、手をついてお辞儀をしたでしょう。私はあの時から妙にいとしい気がしたのよ。おかあ[#「かあ」に傍点]さんから、今度新しい子が来るから、お前の妹分にして仕込んでやってくれとかねてたのまれていたのよ。けれど私は別に気にも留めなかったの。それにあなたを一目見るとなんとも言えないあわれ[#「あわれ」に傍点]な気がしたのよ、あなたはきまり悪そうに、おずおずして言葉も田舎《いなか》なまりのままでしたわね。
かえで 私は勝手はわからないし、心細かったわ。あの時あなたは少し気分が悪いと言って火鉢《ひばち》にもたれて、何もしないでじっとすわっていらしたわね。私は優しそうなかただと思いました。だんだんつきあっているうちに、ほかのねえさんたちとは違ったさびしい、ゆかしいところが私にもよくわかって来たのよ。そしてすっかりあなたが好きになってしまったの。
浅香 あなたは初めはずいぶん苦しい目にあったわね。小さい身にはこらえ切れないような。
かえで あなたはよく私をかぼうてくださいました。
浅香 あなたが死にかけた時にはどんなに驚いたでしょう。
かえで 辛抱おし。何もかもわかっている。私も同じ思いを忍んで来たのだ。何事も国のおかあさんのために。とあなたは泣いて止めてくださいました。
浅香 でもよく聞き分けてくだすったわね。それから互いの身の上話になって、二人で話しては泣いたのね。
かえで まるで数でもかぞえるように、互いのふしあわせを並べ立てて――
浅香 なぜ私たちはこのように不幸なのでしょうと言って二人で考えたのね。そしたらわけがわからなくなってしまって、とうとうあきらめるよりほかはないということでおしまいになったのね。
かえで あの時から二人はいっそうの事親しくなったのね。
浅香 何もかも打ち明けおうて。
かえで (浅香の顔を見る)見捨ててはいやよ。
浅香 あなたこそ。
かえで ねえさん、手をかして。
浅香 はい。(手を延ばす)
かえで (浅香の手を胸のところで握り締める)ねえさんのお手の冷たいこと!
浅香 私は冷え性なのよ。
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二人しばらく沈黙。
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