。どこかに自欺と回避とごまかしとがある。強い人はそのさびしさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしそのさびしさが人間の運命ならば、そのさびしさを受け取らねばならぬ。そのさびしさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事を言うのだ。耽溺《たんでき》と信心との別れ道はきわどいところにある。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。
唯円 善鸞様も自分の生活に自信を持ってしていられるわけではないのです。それでよけいに不幸なのです。今のあのかたのお心持ちでは、ああして暮らしなさるよりないのだろうと思います。私は善鸞様の苦しいお話を聞いて圧《お》しつけられるような気がいたしました。なんと言って慰めていいかわからないで、同悲の情に胸を打たれるばかりでした。私は善鸞様を責める気など少しも起こす事はできませんでした。私はただ私の前に痛ましく苦しんでいる一人の人間を見ました。そしてその人を傷つけた責めをだれが背負うべきかを考えて不合理な感じばかりに先立たれました。私は帰る道で考えると眩暈《めまい》がするような気がしました。だって何一つ私の頭では得心が行かないのですもの。私はすべての
前へ
次へ
全275ページ中138ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング