が、わしの心の眼に見えようとしている、魂をつないでいた見えぬ鎖が今切れようとしている。打ちかちがたくあきらめられていた地上の法則が滅亡して、魂は今新しき天の法則の支配にはいろうとしている。試みられ煉《いた》められたる魂は新生のよろこびにおどっている。今こそすべての矛盾が一つの深い調和に帰しようとする。そしてこの世でのさまざまの苦しみが一つとしてむだでなかったことがわかろうとしている。あゝ。それがみな仏様の愛と義の計画であったことがわかろうとしている。(しみじみとした独白のごとくになる)なにもかもよかったのだな。わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。ゆきずりにふと挨拶《あいさつ》をかわした旅の人も、何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしとはなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。
専信 (登場。弟子《でし》たちに一礼する)ただ今到着いたしました。
唯円 専信殿、一刻も早くお師匠様のおそばに。
専信 (親鸞の寝床のそばに寄る)お師匠様、専信でございます。
親鸞 (目をひらく)専信か。よく来てくれた。(目おのずから閉ず)わしはいよいよ召されるのじゃ。
専信 安らかに往生《おうじょう》の本懐を遂げられますよう。
親鸞 先に往《い》って待っている。
専信 お師匠様の御恩はいつまでも忘れませぬ。師弟の縁ほど深い、純《きよ》いものはありますまい。
親鸞 あの世でふたたび会いましょう。もう二度と別れることのない所でな。
専信 わたしもあとから参ります。じきに参ります。(涙ぐむ)ほんとうにじきでございます。
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弟子衆《でししゅう》涙ぐむ。顕智登場。一同に会釈する。唯円「すぐに師のそばへ」と目くばせする。
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顕智 (親鸞の枕《まくら》もとに寄る)顕智でございます。おわかりでございますか。
親鸞 (目をひらく)わかります。(目を閉じる)なにごとも浄土でな。
顕智 はい。
親鸞 お前の国の御法儀は。
顕智 ますます隆盛でございます。
親鸞 専空《せんくう》は。
顕智 この春|奥州《おうしゅう》へ発足《ほっそく》いたしました。(涙ぐむ)所詮《しょせん》御臨終のお間には合いますまい。
親鸞 それは会うよりもうれしく思います。(間)みんな仲よく暮らしてくれ。わしのなくなったあとは皆よく力をあわせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、不合理な気がすることがあっても、仏と人とに呪《のろ》いをおくるな。およそ祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳をおのれのものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人をねんごろにせよ。仏の名によって皆つながり合ってくれ。(だんだん声が細く、とぎれがちになる)自分らがしてほしいように、人にもしてやらぬのは間違いじゃ、(唯円、筆を水につけてくちびるをうるおす。弟子《でし》たちそれにならう)裁く心と誓う心は悪魔から出るのじゃ……人の僕《しもべ》になれ。人の足を洗ってやれ……履《くつ》のひもをむすんでやれ。(間)ほむべき仏さま。(だんだん夢幻的になる)わしのした悪がみなつぐなわれる。みなゆるされる。罪が美しくなる、罪で美しくなる。奇蹟《きせき》! 七菩提分《しちぼだいぶん》、八聖道分《はっしょうどうぶん》、涼しい鳥の鳴き声がする……園林《おんりん》堂閣のたたずまい……きれいな浴池《よくち》だな。金色《こんじき》の髪を洗っていられる。皆|履《くつ》をぬがれた。あの素足の美しいこと。お手を合わされた。皆歌われるのだな。仏さまをほめるうただな……
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勝信、善鸞登場。
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唯円 善鸞様。早くおそばへ。もう御臨終でございますぞ。
善鸞 (我れを忘れてよろめくように親鸞のそばに寄る)父上様。(声|咽喉《のど》につまる)
親鸞 皆ひざまずいて三宝を礼拝《らいはい》していられる。金色の木《こ》の果《み》が枝をはなれて地に落ちた。皆それをあつめて十方の諸仏を供養なさるのじゃ……あ、花がふる。花がふる…………
唯円 (親鸞の耳に口をあてる)善鸞様がお越しなされました。
善鸞 (声を高くする)父上様。善鸞でございます。わかりましたか。わたしでございます。父上様。
親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす)
侍医 (制する)おしずかに。
善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは…………
親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。
善鸞 わたくしは不孝者です。
親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間で
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