あなたをお待ちかねでございます。
善鸞 父は会ってやると申しますか。
勝信 ゆるすと言って死にたいとおっしゃいます。
善鸞 (奥へ駆け込もうとする)
勝信 お待ちなされませ。ただ一つ。あなたは仏様をお信じなされますか。
善鸞 わたしは何もわかりません。
勝信 お父上はたいそうそれを気にしていられます。きっとあなたにそれをおたずねなされます。
善鸞 わたしは何も信じられないのです。
勝信 信じるといってください。信じると。お父上のお心が安まるために。
善鸞 でもわたしは…………
勝信 この世を去る人の心に平和をあたえてあげてください。
善鸞 (不安そうに)えゝ。
僧三 (いそぎ門より登場)善鸞様はまだお見えなさいませぬか。
善鸞 ただ今到着つかまつりました。
僧三 一刻も早く奥院へ。皆様お待ちかねでございます。もはや御最後も迫りました。
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退場。
善鸞、勝信門に馳《は》せ入る。輿《かご》それにつづく。僧二人も退場。舞台一瞬間空虚。黒き鳥四、五羽庭の木立ちより飛びいで、月の前をかすめて怪しげなる声にて鳴きつつ、屋根の上を飛ぶ。舞台回る。
[#ここで字下げ終わり]

      第四場

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舞台、第二場に同じ。夜。仏壇にあかあかと灯明がともっている。行灯《あんどん》の灯影《ほかげ》に弟子衆《でししゅう》、帰依《きえ》の武家、商人らつつしみ並びいる。親鸞の寝床のそばに医者侍して脈をとりいる。唯円は枕《まくら》もとに近く侍して看護しつつおり。不安の予感一座を支配している。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
親鸞 (目をつぶり、小さき声にて語る。あたり静かなるためその声は明らかに聞き取らる、言葉は時々夢幻的となり、また独白のごとくになる)だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証《あかし》ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。わしは身にあまる、もったいない気がする。わしはそれに相当しているとは思われないのだ。だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬《き》られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、ほとんど信じられぬような死に方をするものもある。やがて愛らしい花嫁となる処女《むすめ》が、祝言《しゅうげん》の前晩に頓死《とんし》するのもある、母親の長い嘆きとなるのも知らずに。麻痺《まひ》した心《しん》の臓のところに、縫いかけた晴れ着をしっかり抱き締めたりしてな。あるいはつい先刻まで快活に冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬのもある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないように残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。あの観経《かんぎょう》にある下品往生《げぼんおうじょう》というのは、手は虚空《こくう》を握り、毛穴からは白い汗が流れて目もあてられぬ苦悶《くもん》の臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業《ごう》によっては何人がそのような死に方をするかもはかられぬのじゃ。だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証《あかし》はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心《しょうじん》を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。もしこの世が浄土で、まだひとたびも偽りというものが存在したことがないならば、だれも疑うという事は無いであろう。信じている心には祝福がある。疑うている心には呪詛《じゅそ》がある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう、信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。(間、声が少しく高くなる)わしは今不思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯《しょうがい》の光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が満ちている。わしのたましいは、最も高く挙《あ》げられ、そして驚くべき広がりに達している。魂の壮観!(夢幻的になる)霊はいま高く高く天翔《あまがけ》って、人間界の限りを越えようとしている。墓場のあちらとこちらとの二つの世界の対立と、その必然の連絡と
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