よう。お師匠様もお心ではお気にかかりあそばしていらっしゃるのにちがいないのだから。
勝信 さようでございますとも。私もいっしょにお願い申しましょう。(向こうを見る)おやお輿《かご》が参りました。
唯円 お見舞いのかただろう。お出迎え申さなくては。
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唯円、勝信門口に立ち迎える。
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家来二人 (輿に従うて登場。輿止まる)主人|橘基員《たちばなのもとかず》。お見舞いのため参上つかまつりました。
唯円 よくこそお越しくだされました。昨日は御殿医様をわざわざおつかわしくだされまして、まことにありがとうございました。どうぞお通りくださいませ。御案内申し上げます。
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唯円、勝信先に立ちて退場。侍二人|輿《かご》に付き添いて門に入る。
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[#地から4字上げ]――黒幕――

      第二場

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親鸞聖人病室。
正面に仏壇。寝床の後ろには、古雅な山水の絵の描かれた屏風《びょうぶ》が立て回してある。枕《まくら》もとに脇息《きょうそく》と小さな机。机の上に経書、絵本など二、三冊置いてある。薬壺《くすりつぼ》、湯飲み等を載せた盆。その上に白絹の布が掩《おお》うてある。すべて品よき装飾。襖《ふすま》の模様もしっとりとした花や鳥など。回り縁にて隣の宿直《とのい》の部屋《へや》に通ず。庭には秋草。短冊《たんざく》、色紙《しきし》等のはりまぜの二枚屏風の陰に、薬を煎《せん》じる土瓶《どびん》をかけた火鉢《ひばち》。金だらい、水びん等あり。
[#ここで字下げ終わり]

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親鸞 (鶴《つる》のごとくやせている。白い、厚い寝巻を着ている。やや身を起こして脇息にもたれる)そのさきをもっと読んでおくれ。
勝信 (手紙を持ちて)これを読むと法然聖人《ほうねんしょうにん》様がどのように、母様思いであったかがわかりますのね。(手紙を読みつづける)けさまでははなやかに、いろかもふかくみだれ髪の、まゆずみにおい、たぐいなきその人も、ゆうべには野べのけむりとたちまちに、よりそう人も遠ざかり、ひとりかばねをさらす。ただただ世のなかは、あさがおのはかなきわざにたわぶれて、きょうやあすやとうちくれて、何か菩提《ぼだい》のたねならむ。ただ一すじに後の世のいとなみあるべし。この世はゆめのうち、とてもかくてもすぎゆけば、うきもつらきもむなしく、ただまぼろしの身のうえに、こぞやことし、きのうやきょうも、うつりかわれる世のなかはただ一《いっ》すいのゆめのうちには、よろこびさかえもあり、かなしび、あめ山なすこともあれども、さめぬればあとかたちもなきもの。あら。なにともなのうきよや。あら、いたずらごとどもや。あさましや……
親鸞 わしのように年が寄るとね、そのような気持ちがしみじみしてくるものだよ。九十年のながい間にわしのして来たさまざまのことがほんに夢のような気がする。花鳥風月の遊びも、雪の野路の巡礼も、恋のなやみやうれしさも、みんな遠くにうたかたのように消えてしまった。ほんとに「うきもつらきもむなしく」という気がするね。何もかもすぎてゆく。(独白のごとく)そうだ、すぎてしまったのだ。わしの人生は。さびしい墓場がわしを待っている。(勝信何か言いかけてやめる)さきを読んでおくれ。
勝信 (読みつづける)よもかりのよ。身もかりの身、すこしのあいだにむやくの事を思い、つみをつくり、りんね、もうしゅうの世に、二《ふた》たびかえりたもうまじく候《そうろう》。さきに申し候ごとく、さまざまに品こそかはれ、おしい、ほしい、いとおしい、かなしいと思うが、みなわがこころに候。こころというものはさらさらたいなきものにて候、それを思いつづくるほどに、しゅうしんとなりて、りんねする事にて候ほどに、ふっと心はなきものよ。心が鬼ともなりて身をせむるなれば心こそあだのかたきよ。凡夫《ぼんぶ》なればはらもたち、いつくしきものが、おしい、ほしいとおもう一念がおこるとも、二念をつがず、水にえをかくごとく、あらあさましやと、はらりと思い切り、なに心なくむねん、むそうにしておわし候わば、それこそまことの御心にて候《そうら》え…………
親鸞 そのあたりは清い、涼しい法然《ほうねん》様のおこころがよくあらわれている。(昔をおもうように)それは清らかなうつくしいお気質だったからね。わたしなどとちがって。その手紙は老体のお母上が御病気をなすって、いろいろと悲しいおたよりをなすった御返事なのだよ。
勝信 それでなぐさめたり、はげましたりあそばすのですね。ほんとに女のように、こまごまとしたお優しいお手紙ですのね。(よみつづける)まことのこころざし
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