(泣き声にて)ねえさん。ひどいよ。ひどいよ。
お利根 だからあげようと言ってるのだわ。
お須磨 あたしの番だのに、自分ばかりつくのよ。
お利根 かんにんだったのよ。
お須磨 うそだよ。うそだよ。
勝信 後生だから。きょうばかりはけんかなどしておくれでない。
お利根 かあ様。泣いてるの。
お須磨 かあさま。かあさま。(すがりつく)
勝信 お師匠様がたいへんお悪いのだよ。それでみんな心配しているのだよ……ほんとに何もしらないで。(涙ぐむ)空飛ぶ鳥でさえ羽音をひそめて憂鬱《ふさ》いでいるような気がするのに。
お利根 かあさま。もう泣かないで。あたしどうしましょう。(お須磨に)須磨さま。ごめんなさい。
お須磨 もうけんかしないわ。かあさま。
勝信 (二人の子を抱く)仲よくするのですよ。さ、きょうはもう内へはいって、静かにしてお部屋《へや》でお遊び。
お須磨 かあさまは?
勝信 私は少し用があります。あとで行くからね。
お利根 そうお。
[#ここから5字下げ]
二人の少女門より退場。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
勝信 空ゆく雲もかなしそうな気がする。大きな不幸がやがて地上におとずれる前ぶれのように。(門の内を見る)お輿《かご》が来るようだ。お医者さまのお帰りなのだろう。(門のほうに行く)
[#ここから5字下げ]
輿一丁門より出る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
唯円 (輿の後ろに従うて登場。門の出口に立つ)気をつけてお越しあそばしませ。
[#ここから5字下げ]
勝信、門口に立ち腰をかがめて見送る、輿の中より何か挨拶《あいさつ》の声聞こゆ。輿去る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
唯円 (しおれて沈黙したまま立っている)
勝信 お医者はなんとおっしゃいますか。
唯円 (絶望したように)あゝ。人類はその最大なものを失うのか。
勝信 では、やはりもつまいと……
唯円 (じっとしていられぬように庭をあるく)橘《たちばな》様の御殿医《ごてんい》のお診察《みたて》も侍医のお診察《みたて》も同じことなのだ。寿命のお尽きとあきらめられよとのお言葉なのだ。
勝信 なんとかしてとりかえすてだてはないのでしょうか。
唯円 それどころではない。きょうかあすかも知れないのだそうだ。
勝信 え。そんなことはありますまい。(自分の考えを信じようとするように努力しつつ)お話などおきげんよくあそばすのですもの。
唯円 それが前ぶれなのだそうだ。消えかかる灯火がちょっと明るくなるようにな。もうお脈搏《みゃくはく》がおりおりとぎれるのだそうだ。いつ落ち入りあそばすかも知れない。無病で高齢のかたの御最後は皆そのようなふうのものだから、たのみにはならないとおっしゃった。もうあきらめて、ひたすら、思い残しのない御臨終を……
勝信 おゝ、私に代わられるものなら!
唯円 私もいく度そう思ったろう。だがそれもかいないことだ。お師匠様はもうとくに御覚悟あそばしていらっしゃる。もう仏さまに召されるのだとおっしゃってな。
勝信 ほんにこのごろはお話もことに細々として来たようでございます。そして御臨終の事が気になっていらっしゃるようでございますよ。きのうも私にあの上品往生《じょうぼんおうじょう》の発願文《ほつがんもん》を読んでくれとおっしゃいましてね。
唯円 この上はせめてやすらかな御臨終をいのりたてまつるほかはあるまい。(考える)
勝信 唯円様。私はいつも気になっているのでございますがね。
唯円 善鸞様のことだろう。
勝信 えゝ。(涙ぐむ)御臨終には必ずお目におかかりあそばさなくては。呪《のろ》いを解かずにこの世を去られては。
唯円 その事を私も心配しているのだよ。御不例の初めのころ、今度はどうも御回復のほどもおぼつかなく思われたので、弟子衆《でししゅう》が相談してね。知応《ちおう》殿が善鸞殿をお召しあそばすようにお勧め申したのだがね。あの子憎しとて隔てているのでもないものを。由ない事を言い出して、私を苦しめてくれなとおっしゃって、御不興げに見受けたので、それからはだれもそのことを言い出すものがないのだよ。
勝信 でも今度ばかりはぜひ御面会あそばさなくては。もう二度と……私はたまりません。あとで善鸞様がどのようにお嘆きあそばすでしょう。
唯円 急ぎ御上洛《ごじょうらく》あそばすよう稲田《いなだ》へ使いを立てておいた。もう御到着あそばすはずになっている。もう重《おも》なお弟子《でし》たちには皆通知してあるのだ。
勝信 早く申し上げなくては。もしかのことがあったらとり返しがつきません。あなたのほかに申しあげるかたはありますまい。
唯円 けさのうちに私が誠心こめて願ってみ
前へ 次へ
全69ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング