ときです。その時お師匠様御近侍の若僧が遊女をめとったとあっては、法敵の攻撃に乗ずる口実ともなります。若い弟子たちの精進《しょうじん》は鈍くなります。日ごろ御発明なあなたです。ここの道理のわからぬことはありますまい。若いあなたがこの決心をひるがえさぬなら、私はあなたにこの寺にいてもらうことはできません。あるいは私が出て行くかどちらかです。だが、たぶん、あなたは私にそのような苦しい思いをさせずに思いとどまってくださるだろう。私はあなたを愛しているつもりじゃ。な。唯円殿、あなたは今は興奮しているからでしょう。思い切ってくださるでしょう。あの女の事はふっつりとあきらめ……おや、あなたは泣いていますね。
僧二 女ではあるまいし。
僧三 いや。思い切られたのでしょう。それでつらいのでしょう。
唯円 私は思い切ることができません。私はもう考え抜いたのです。私は寺の事、法の事、朋輩衆《ほうばいしゅう》の事も考えないのではありません。けれどあの女を振り捨てる気にはなれません。あの女に罪はないのですもの。振り捨てねばならない理由が見つからないのですもの。私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたらなぜ涙と感謝とがその感情にともなうのでしょう。あの人を思う私のこころは真実に満ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気がいたします。あゝ、私たちがどんなに真実に愛しあっているかをあなたがたが知ってくださったら! 私は自分の心からわいて起こる願いを大切にして生きたいと思います。そのねがいが悪いものでない以上は、決してあきらめまいと思います。お師匠様がおっしゃいました。宗教というのは、人間の、人間として起こしてもいい願いを墓場に行くまで、いかなる現実の障碍《しょうげ》にあってもあきらめずに持ちつづける、そしてそのねがいを墓場の向こうの国で完成させようとするこころを言うのだって。あの小さい可憐《かれん》なむすめ、淵《ふち》の底に陥って泥《どろ》にまみれてもがいている。もう死ぬのだとあきらめている。そこに救いの綱がおりて来た。それを握れば助かるという。でもそれを初めは拒んだほど不幸に身を任せていたのだ。私はあの女に助けられたいという欲望を起こさせるのにどんなに骨を折ったろう。とうとう綱を握った。もう明るい陸のきわまでひきあげられた。そこに幸福と希望とが目の前に見えて来た。その時急にその綱を断ち切ってしまう――おお。そんな残酷な事が私にできるものか。そんなことをするのが仏様のみ心にかなうものか。そんな事は考えられない。私はできない。(熱に浮かされたようになる)あの女とともに生きたい。どこまでも、いつまでも。
僧二 寺はどうなってもいい。法はどうなってもいいのですか。
僧三 若いお弟子《でし》たちはつまずいても。
唯円 あゝ、ではわからなくなる。(身をもだえる)
僧二 あなたは二つの中から選ばなくてはならない。恋かあるいは法か――
唯円 不調和だ。どうしても不合理だ。恋を捨てなくては、法が立たないというのは無理だ。どちらもできなくては――
僧三 なんという虫のいい事だろう。
僧二 あなたは女郎と仏様とに兼ね事《つか》える気なのですか。私はあきれてしまう。恥を知りなさい。
僧一 (しずかに)そんなに荒々しくしてはいけません。落ちつきなされ。唯円どの。あなたはさぞ苦しいでしょう。けれどその苦しいのは当座の事です。日がたつにつれていつのまにやらあわくなります。人の心というものは一つの対象に向かってでなくては燃えないような狭いものではない。蝶《ちょう》は一つの菫《すみれ》にしか止まらないというわけはない。あなたはこの事を今は特に著しく、重大に感じていられる。さもあることです。けれど私たちのような老人から見れば、ただどこの太郎もそのお花を見つけるという一つの普通の事に過ぎません。
唯円 (いかる)私はそのような考え方をするのを恥じます。
僧一 そんなに興奮しないほうがいいです。私はただ年寄りとして若いあなたに、まあ、そのようなものだということを言ったまでのことですから。もうあなたに向けて議論をいくらしてもしかたがありません。私たちは、私たちの考えを行なうよりほかに道がありません。だが、ただも一度だけ伺います。あなたはどうしてもあの遊女を思い切る事はできませんか。
唯円 どうしてもできません。
僧一 ではしかたがありません。(僧二、三に)もう話してもだめですからあちらに参りましょう。(立ち上がる)
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僧二、三立ち上がる。三人の僧行こうとする。
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唯円 (僧一の衣を握る)なんとなされます?
僧一 私はあ
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